ふじみ野通信

ふじみ野通信17 「年表」にみる日本の災害史考(1)

1.主な年代典拠は「日本史年表」歴史学研究会編

 ここでいう災害とは、自然災害のことである。地震や津波・洪水などは直ぐにうなづけるところであるし、旱魃なども分かりやすい。しかし、例えば大火というのはそれにあたるのかどうか、判断に迷うところであるが、火の元が放火や過失の人災のみで大火には至らないであろうと考えれば、多くの人々にとっては明らかに「災害」である。自然災害の一つである「大風」や防火を妨げる地震などがそれに伴っていたとも考えられる。

 記録は記録者にとって最も大事なことを最初に記述する。人々は日常生活において共通に向き合った条件、すなわち「災害」のようなものは行動を説明する「理由」にはしなかったようである。当然、災害情報は他国に対しては不利な情報であったろうが村中ではともに隠蔽したい深刻な「現実」であったはずであるから、そのような情報が外国の彼らに伝わるはずもなかったのかもしれない。  
 古墳時代までの記録は、ほとんど外国文献による国交の記録である。「倭国」にまだ文字のなかったころの記録だったのであろうから、もちろん、倭国による記録ではない。言い換えれば、外国の為政者の目に映った「倭国」だったのであろう。

 外国の記録の中に出てくる記録は、当然ながら「倭国」の記録であって倭国の災害ではない。言い換えれば、倭国の存亡にかかわるような災害でなければ、災害は載りにくいということだったかもしれない。

 日本史をみると、紀元前後から6世紀はじめ頃までの記録は、中国史の中の「倭」と記紀の記述の相対的な位置づけのなかで確かめられてきたもののようである。わが国最古の記録である記紀の成立は、8世紀になってからであるからそれまでの記述が長い校訂の結果であるのはやむを得ない。

 最古の記録は「漢書地理志」にある前漢の楽浪郡への朝貢の記録である。これが紀元前後。ついで志賀島で出土した「漢委奴国王」とある金印を贈られたという「後漢書東夷伝」の記録。

 2世紀頃になって有名な卑弥呼を記録している「魏志倭人伝」が出てくる。「魏志」には「韓伝」もあってそのなかにも倭人は出てくるようである。

 4世紀になると「百済本紀」、書籍ではないが高句麗の「広開土王碑」、「三国志記」。5世紀になると「宋書倭国伝」「南斉書倭国伝」「梁書」等に倭国は紹介されているようである。記紀は、資料としては6世紀から取り上げられる史実が多いようである。ちょうど、日本の古墳時代が花咲けるころからである。この頃になって、わが国でも文字が使えるようになったのであったろうか。

 最初に記述される史実は、507年の大伴金村らによって越前三国から迎えられた継体天皇の即位からであるようである。これは当時の日本にとっても、よほど奇異なことだったのであろうか。その詮索はしないが、「日本書紀」引用の「百済本記」によると、西暦531年継体25年に、「日本の天皇および太子、皇子ともに没する」と伝えている。これも奇異なことであるが、同じく所引の「上宮聖徳法王帝説」はこの年欽明天皇即位と伝えている。つまり、三国から連れてこられた継体天皇とその一統は25年の治世の後に消し去られてしまったかのように見える。

 この6世紀半ばのころから、記紀の記述が多く取り上げられるようになっている。外国の記録では「随書倭国伝」であるが、このほうはほとんど任那の滅亡と新羅・高句麗・百済をめぐる外向的な動向で倭国内の蘇我氏や物部氏、厩戸皇子などの攻防はほとんどが記紀の記録によって登場してくるが、なかったはずはない災害については登場していないようである。

 最も古い災害の記録は、599年推古7年4月の項に「地震により舎屋倒壊する。四方に地震神を祭らせる」とある。この頃の都は、まだ奈良の辺たりであろうから「四方に」というのは現在の奈良・和歌山・大阪等の近畿圏を示していたのであろうが、地震神とはどのようなものであったろうか。

2.飛鳥・奈良の震災年代記

 622年推古30年2月、聖徳太子の厩戸皇子が斑鳩宮で没する。次いで蘇我馬子が626年推古34年に没する。そして、この年霖雨で大飢饉となる。このころから、天災・災害も記述されるようになるが、この時の大飢饉となった倭国はどの辺りまでの地域を指すのか、は想像するしかない。また、地震については伝聞の記述をでないようにも見えるが、地方官の報告が柱になっているのかもしれない。

 この項について、もう少し付け加えて考えるとまず、白村江の敗戦で天智朝は外国への防備と内政の充実に迫られてくる。その結果、670年天智9年、全国的に戸籍「庚午の年籍」の制を進める。それと前後して設置されたと思われる、亡命百済人を主要構成員とする中央官人養成機関「ふんやのつかさ」としての大学が、官人の識字率を大きく向上させたであろうことは想像される。多分、この二つのことが飛鳥・奈良朝後半以降の記録と諸制度の進行に大きく関わってくると考えられるからである。

636年舒明8年、この年大旱で天下が飢える。
「旱」には、大旱・水旱・炎旱・旱魃と出てくるがいずれも旱魃の意。

642年皇極元年6月~8月、大旱。群臣により雨乞いが行われた。大臣蘇我蝦夷は諸寺に命じて大乗経典を読み上げさせたが雨はわずかに降っただけであった。そこで天皇が南淵の川上に跪き四方を拝して天に祈ったところ、雷鳴とともに大雨が降ったという。

678年天武7年3月 九州は有明海の辺りに地震あり。家屋倒壊多く、長さ3,000余丈の地割れを生ず。

684年天武13年10月14日 四国沖を震源とする南海地震。東海・南海・西海道大被害。津波、土佐田苑50万(頃)海となる。

701年大宝元年3月26日 丹後半島に地震。舞鶴沖の凡の海・郷を没し、山頂のみが残り二つの島となったという。

704年慶雲元年 この年から3年間、水旱・飢饉が続き百姓、多く死亡する。

715年霊亀元年5月26日 志摩半島沖に地震。三河、正倉47破壊。
正倉とは、郡単位で設置された不動租穀の収蔵、群稲の運用、貢納物の収蔵庫。郡司の管理下にあった。当該郷内の田租・正税は郷蔵に収蔵された。

734年天平6年4月7日 紀伊半島に地震あり。民家倒壊、圧死多く、山崩れ川ふさぐ。

735年天平7年 「夏より冬にいたり、天下豌豆瘡を患う」(「続日本紀」)とある。この年不作、また天然痘により多数死亡する。この疱瘡というのは、伝染力のきわめて強い急性伝染病である。気道感染で、5日ぐらいの潜伏期間で全身に丘疹が発生、水泡ついで膿疱となり、カ皮を作り脱落後は瘢痕となる、死亡することもある。現在は絶滅宣言が出されているが、歴史上は長く苦しめられている。

737年天平9年 この年、また天然痘が大流行する。同じく「続日本紀」に「春、疫瘡大発す。初め筑紫より来たり、夏を経て秋に亙り、公卿以下、天下百姓相継いで疫死す」とある。その恐ろしさがわかるようである。

745年天平17年4月27日 京都に地震。美濃の櫓館・正倉・仏寺・堂塔・百姓櫓舎倒壊多し。

790年延暦9年 この年 京畿に天然痘流行。この「京畿」というのは、王城の周辺の地という意味である。律令国家が定めた行政区域で山城・大和・河内・摂津の4カ国をいう。もともとは律令国家を形成した諸氏族の居住地域を区別扱いしていったもの。京都は、延暦13年794年に桓武天皇が遷都してから都=京となった。呼び名は平安京である。

3.平安の震災年代記

 平安朝にいたっても、恐ろしいものの第一は「疫病」であった。既に、「古事記」によると崇神天皇の条に「この天皇の御世に疫病起こりて、人民死に尽きなむとす」とある。その恐ろしさが滲んでいるような文章である。また、「日本書紀」には「疫病・疫疾・疾疫・疫気」を「え(役)にたたされるやまい」と読んでいる。つまり「全ての人が罹り尽くす病気」ということからおこった言葉で、今日でいうところの伝染病を指したようである。

 しかしこの時代にあって有効な対策はなかったから、人々は祭祀に平安を求めた。春秋の豊穣と収穫の祀りに対して「夏祭」はもっぱら疫病払いであった。

第二の恐ろしい災害は、地震と火事であった。地震の研究者によると「有史以来、今日までの被害地震数は、微小被害のものまで含めると約620に達する」というから相当の数にのぼるはずであるが、この時代の記録はまだまだ少ない。

 しかし、地震も疫病も、記録よりはよほど多かったのであろう。古来、恨みを含んで不慮の死を遂げた怨霊の祟りが疫病の原因だとする考えが一般にあり、人々には激しい怨霊の怒りが地震や旱魃や大風・豪雨等の天変地異をもたらしている、という虞れがあった。

863年貞観5年5月には京都で怨霊会が行われるようになり、970年天禄元年にはあの有名な祇園怨霊会は牛頭天王を勧請して、本格的にその強い霊力によって救われようとしたようであった。
地方官の報告書という形であっても、記録が整ってくることは、それは為政の体制がそれなりに整ってきたことを意味していたのであろうが、為政者の対策はなかなかにまだ有効ではなかったのであろう。
 
800年延暦19年3月 富士山噴火。「日本紀略」によると、この噴火は20年、21年と続いたというが詳細ははっきりしない。また、「続日本紀」によると天応元年781年7月の条に「駿河の国言、富士山下雨灰、灰之所及木の葉彫萎」と記しているのが初出である。

818年弘仁9年7月 上総・安房を除く関東で強震。山崩れ・谷埋まり、百姓の圧死多数。

827年天長4年7月12日 京都で地震。舎屋多く潰れ、余震翌年に及ぶ。

830年天長7年正月3日 陸奥の秋田で大地震。これについては「秋田城国司正六位上行介藤原行則」の出した牒が残っている。「三日辰の刻、秋田城地方に大地震がおこり雷鳴のような大音響とともに城郭・官舎・四天王寺・丈六の仏像・四王堂などすべて倒壊し、死者15、傷者一百余である。大地は三十丈から二十丈ばかりの裂け目があり、城辺の大河の秋田河は流れが細くなり溝のようになった。川底が裂けて漏水して海に通じたのであろう、官民は動揺しておりじっくり検分できていない。支流は――両岸崩れ塞がって氾濫し、近くの住民は暴流を恐れ争って山や丘に移動している。――余震が一時に7~8回もあり、それに風雪が吹き荒れて、以後の被害状況は把握できない。」

837年承和4年4月16日 陸奥の玉造温泉に地震。「雷響振動が昼夜続き、山焼け谷塞がり、石崩れて木折れて新沼を作って雷のような騰声があがる」という火山性の地震があった。(「続日本後紀」)

841年承和8年 伊豆に地震。里落ち完からず。死傷多し。
 
848年嘉祥元年8月 京都大洪水により河陽橋・宇治橋・茨田堤等が損壊する。

850年嘉祥3年 陸奥に地震。山崩れ、出羽の城柵傾廃し、圧死多数。最上川の岸崩れる。

863年貞観5年 春、京畿内に咳病流行する。この「咳病」という表記は、所謂漢方医学の表記で咳の出る病ということである。この当時、既に漢方医学は日本に入っていたと思われるが、この咳病は、湿咳と乾咳とあってそれによって病名が違ってくるとしているから、この場合の病名は不明である。多分、今で言う「風邪」の類か。

864年貞観6年5月から6月 富士山噴火。この噴火では、「北西の中腹から甲斐の側に向かって大量の溶岩を流した。[せのうみ]を分断して、百姓の居宅を埋没させた」(「続日本紀」)というから、この時に富士五湖が生まれたのか。

865年貞観7年 前年末より今春、阿蘇神霊池沸騰。

868年貞観10年7月8日 播磨に地震。播磨諸郡の官舎、諸定額寺の堂塔、悉く崩れる。

869年貞観11年5月26日 陸奥国に地震・津波あり。「陸奥の国に大地震あり。(夜なのに)昼のように流光が映えた。やがて人民は叫び転んで立てなかった。家倒れて圧死し、地裂けて埋もれ死んだ。牛馬は狂奔し、城郭・倉庫・門櫓・はしら壁が無数に崩れ倒れた。海は咆哮し、雷のように海鳴りが響き大波が漲り、忽ち城下にいたり、みな海面になり海岸線もわからない。原野道路もみな水面となり、船に乗る暇も山に登る余裕も溺死者も千にもなる。資産も稲作も残るところがない。」(「類集国史11年紀5月26日条」)

869年貞観11年7月 肥後の国に大暴風雨。「瓦を飛ばし、樹木を倒し、多くの官民の建物を転倒させ、人畜の圧死するもの数知れず。潮水が漲り溢れ六郡が漂没した。水の引いた後で官物を探したが十のうち五六を失った。海から山まで田苑数百里が陥没して海になった。」(「日本三代実録」7月14日の条)

875年貞観17年8月 京都大風雨。

878年元慶2年9月 紀伊国府破壊、関東地震。

880年元慶4年10月14日 出雲で地震。神社・仏寺・官舎・民家の倒壊多し。
同年12月6日 震央は京都。宮城の垣柱・官舎・民家の類損多し。

887年仁和3年7月 諸国大地震。京都で家屋倒壊多く、圧死多数。津波、南海道を襲い、溺死者多数。

915年延喜15年 この年、疱瘡流行。

923年延長元年 春以降、京中に咳病流行。

929年延長7年 7月から8月、大風洪水。

930年延長8年 春から夏にかけて、京中に疫病流行。疫病には麻疹・疱瘡・咳病なども含まれていたと思われるが、詳細は不明。

937年承平7年11月 富士山噴火。

938年天慶元年4月15日 京都で地震。宮城門柱等破壊。堂塔・仏像多く倒れる。高野山の諸伽藍破壊。

944年天慶7年9月 暴風雨のため弘懲殿・信濃国庁等転倒。

947年天暦元年6月以降、疱瘡・赤痢流行。この「赤痢」には二つの種類があって、1880年明治13年まで九州地方の地方病にすぎなかったといわれる寄生虫によるアメーバ赤痢と細菌による真性赤痢とある。この場合、どちらかは不明。

956年天暦10年 この年、旱魃。

962年応和2年5月 加茂川堤決壊して京都洪水。

966年康保3年8月 桂川決壊して京五・六条洪水。

974年天延2年 8月から9月、疱瘡流行。

976年貞元元年6月 京・近江の国に地震。八省堂・豊楽院・東寺・近江国庁等転倒する。死者50余。

994年正歴5年4月 疫病京中にも流行し、路頭に病者・死者多し。疫病九州より起こり、諸国に流行。
998年長徳4年6月 疱瘡流行。

999年長保元年3月 富士山噴火。

1000年長保2年6月 疫病流行。翌年の春、夏に及ぶ。

1015年長和4年3月から7月 疫病流行。

1020年寛仁4年 この年の春、疱瘡流行。

1025年万寿2年 この年、諸国に疱瘡流行。

1026年万寿3年8月 大風で諸官舎倒れる。

1028年長元元年9月 鴨川氾濫、京都に洪水。

1030年長元3年 この春、疫病流行、死者多数。

1032年長元5年12月 富士山噴火。

1044年寛徳元年 1月から6月、疫病流行。

1048年永承2年 6月から7月、諸国旱魃。

1059年康平2年5月 大雨により京都洪水。

1077年承歴元年 この年、疱瘡流行。

1079年承歴3年3月 京都大火。翌1080年承歴4年6月 大雨で京都洪水。

1082年永保2年 この年、諸国旱魃。

1083年永保3年3月 富士山噴火。

1084年応徳元年7月 疱瘡が流行。翌応徳2年秋、続いて疱瘡流行。

1091年寛治5年8月 京畿、大地震。翌寛治6年3月 京都大火。8月 諸国に大風洪水。伊勢両宮の宝殿が倒れる。

1093年寛治7年 この冬、疱瘡が流行して多数の小児が死亡する。

1096年永長元年11月24日 東海沖地震。東大寺の鐘落ちる。伊勢・駿河に津波。駿河の流失家屋400余。

1098年承徳2年2月 京都大火。6月 鴨川が氾濫。翌康和元年1月24日 南海沖地震。京都に被害、興福寺西金堂倒壊。土佐の田1000余丁海に没す。7月 天変・地震・疾病により非常赦を行う。

1101年康和3年1月 大地震。興福寺金堂・大門倒壊。翌康和4年 西国で大風。箱崎宮の神殿倒壊。

1108年天仁元年7月 信濃浅間山が噴火、上野の田畑壊滅。

1110年天永元年7月 咳病が流行する。翌天永2年 この年、諸国飢饉。

1116年永久4年9月 京都に大火。

1125年天地2年12月 京都大火。内裏諸門で鬼気祭りを行う。

1127年大治2年2月 大内裏火災。翌々年大治4年1月 京都大火。

1134年長承3年 この年、洪水・飢饉・咳病が流行。

1142年康治元年9月 大雨で鴨川が氾濫。

1146年久安2年3月 京都大火。翼々久安4年2月 京都大火、法成寺・法興院等罹災。

1155年久寿2年 諸国飢饉。

1161年応保元年7月 大雨により鴨川氾濫。

1166年仁安元年12月 京都大火。翼々仁安3年 また京都大火。

1171年承安元年10月 京中に羊病と称するものが流行。この羊病の実態は不明。ただ、「屠所の羊」という言葉があったことからすると意味は、「不幸に直面して気力も衰え、悲しみにうちひしがれている様」ということになる。

1175年承安4年6月 長雨により諸国に被害。

1177年治承元年2月 疱瘡が流行する。

1181年養和元年4月 京中に餓死者あふれる。この年、諸国飢饉。翌寿永元年も飢饉が続き諸国の餓死者数万人に及ぶ。

1185年文治元年5月 京都に疫病流行。7月9日 京都に大地震。特に白河辺りの被害大。法勝寺の阿弥陀堂・南大門など転倒。

2011.6.10 田沼

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# by esapp | 2011-06-10 10:05

ふじみ野通信16 「世界の国防費」について

各国の国防費-GDP比3%以上の国々-2008年

国名/GDP比(%)/推計実額(百万ドル)/一人当たり国民所得(ドル)/一人当たり国防費(ドル)

アゼルバイジャン  3.2     1,600.        3,830.    1,940.
アラブ首長国連邦  5.1     13,877.1      60,659.    2,972.
アルメニア     3.3     400.         3,350.    133.
イェメン      6.4     1,500.        900.     67.
イスラエル     7.4     14,800.      24,720.    2,097.
オマーン      8.5     4,700.       14,330.    1,410.
クウェート     4.4     6,800.       43,930.    2,623.
グルジア      8.1     1,000.       2,500.     224.
サウジアラビア   8.2     38,200.      17,870.    1,357.
シリア       3.8     1,900.       2,160.     91.
シンガポール    4.2     7,700.       34,760.    1,663.
スリランカ     4.2     1,800.       1,780.     85.
ネパール      3.5      180.         400.      6.
パキスタン     3.0     4,400.        950.      26.
ヨルダン      10.6    2,173.0       3,470.     347.
ベトナム      3.2     2,900.       890.      33.
モルジブ      3.4      43.        3,640.    111.
アルジェリア    3.0     5,200.       4,190.    153.
アンゴラ      3.1     2,400.       3,340.     194.
ギニアビサウ    3.7      18.         250.      12.
ナミビア      3.3     297.0        4,210.     137.
ブルンジ      7.5     82.5         140.        9.
モロッコ      3.5     3,000.       2,520.      96.
アメリカ      4.9    696,300.       47,930.    2,290.
キューバ      4.0     2,300.       5,512.     201.
ガイアナ      5.8      67.        1,450.     89.
コロンビア     3.9     9,500.       4,620.     221.
チリ        3.3     5,600.        9,370.     338.

資料 Date Book of the World 2011.

 GDP比、国防費総額、一人当たり国民所得、一人当たり国防費負担額、という意味では上の表の通りである。

 国防というのは、国体の防衛ということになるのであろうが、そもそも国体とはこのグローバル時代にはどのような意味になるか。わが国のというのは日本のということであるが、「法的には、国権を全体として掌握する者すなわち主権者が何人であるかによって区別される国家形態」ということである。

 「主権在民」であれば国民のための国民による「国民の防衛」ということになるであろう。このデータの対象国である国連加盟国には、さまざまな国体の国々があるが「主権在民」であれ、専制王権であれ、立憲君主国であれ、「国体の防衛」という意味では矛盾はないわけであろうが、主権者が誰かによってその防衛予算の多寡をみる目も違ってくる様にも思われる。

 第一次から第四次にわたる中東戦争などを見ると、「戦争」は結局、最新の兵器と最高の予算と最高の「意気」が決定している様に見える。そしてなかでも最新の兵器を求める最高の「予算」は不可欠である。しかしながら「戦争」は、古来からいかなる戦争であっても「国体」を守る戦争なのであるからして、当然、その「国体」の戦略が勝敗を決してきたのであって「国体」の持っている正義が決してきたのではないであろう。

 かつてイギリスには、Trial by Battle という裁判制度があったそうである。つまり、当人同士が武器を持って闘うことによって紛争を解決する方法である。Duelling 決闘といったようであるが、 それが裁判制度として認められていた時代があったのである。最初の裁判は1096年であったとされる。必ずしも評判のいい制度ではなかったが、17世紀後半の王政復古の時代は他人から受けた侮辱に対して、自らの名誉を守る騎士的行為として貴族や上流階級の間で盛んになった。

 そしてこれはその後、アメリカにわたった。有名な決闘としては、初代財務長官のアレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの1804年の決闘であるが、ハミルトンは撃たれて翌日に死亡した。決闘の武器は、剣からこのころにはピストルになっていたようである。ハミルトンの死後批判が高まって北部では行われなくなったが、南部や西部ではしばらく続いたという。

 制度としては、何時が最後であったか。独立国アメリカにもこの「決闘裁判」制度があったのかどうか、わからないが、イギリスでは1843年のフォーセット事件を最後にしてなくなったという。

 2008年の世界の主な国々の防衛予算総額は、次の通りである。

①アメリカ 6962億ドル
②フランス 671億ドル
③イギリス 607億ドル
④中国 601億ドル
⑤ドイツ 469億ドル
⑥日本 460億ドル
⑦ロシア 404億ドル
⑧サウジアラビア 382億ドル
⑨インド 315億ドル
⑩イタリア 309億ドル
⑪ブラジル 262億ドル
⑫韓国 241億ドル
⑬オーストラリア 221億ドル
⑭カナダ 198億ドル
⑮スペイン 192億ドル
⑯イスラエル 147億ドル
⑰トルコ 135億ドル
以上

 1985年のGDP比は、イスラエル21.2パーセント、サウジアラビア19.6パーセント、イラン18パーセント、中国7.9パーセント、アメリカ6.5パーセント、韓国5.1パーセント、イギリス5.2パーセント、トルコ4.5パーセント、フランス4.0パーセント、オーストラリア3.4パーセントが主なところである。

2011.3.15 田沼

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# by esapp | 2011-03-28 09:58

ふじみ野通信15 「平和」を求める人々(2)

 「平和」というのは、現状のバランスに乗って成立している。これは確かなことであろう。しかし、それが外からの加重によって成り立っていたとすれば、それは一時的なものというにすぎないから恒久的に考えれば、後々の問題を複雑化することにならざるをえない。

 世に格差はある。その格差を、多分、国連の決議などを見ると今日の目に見えている以上合理的に解消したいと思っているように見える。この格差の基本的なものは所得格差である。この所得格差は、主体性を無視して埋めることはできない。主体性とは、存在をめぐるあるいは社会への意識形態を支える自意識である。自意識を支えているのは矜持である。したがって変革する社会を意識すれば自意識は変わるであろう。

 では、あの2月11日、ムバラク大統領を辞任に追い込んだカイロのタハリール広場で叫ぶ民衆はどのような変革を意識したのであろうか。また、2月15日、アルジェリアの首都アルジェで、1月14日、ベンアリ大統領を亡命させたチュニジアの首都チュニスで、2月15日、バーレーンの首都マナマの真珠広場で「ハリファは直ぐ出て行け」と叫ぶ民衆は、同じく15日、リビアのベンガジで「ムアマルはアラーの敵だ」と叫ぶ民衆は、2月12日、イエメンの首都サヌアで「次はサレハだ」と叫ぶ民衆は、2月1日、首相更迭したヨルダンの首都アンマンで「経済改革も政治改革なしでは実現できない」と叫ぶ民衆は。

 更に2月14日イランで政権と対立する改革派がデモ、17日サウジアラビアでシーア派の拘束者の釈放を求める集会、同日イラクの北部スレイマニアやクートで汚職対策を求めるデモ、18日、ジブチで「ゲレは出でいけ」という大統領の退陣要求デモ、同日クウェートのジャフラで国内に10万人以上いるといわれる無国籍住民の市民権要求デモ、同日、オマーンで食料価格高騰などへの不満を訴えるデモ。

 これらの要求デモは、根があるであろう。それが何かを考えなければならない。デモも犠牲なしにできるわけではない。そしてデモのなかで自己変革は起こりつつあるに違いないがデモは、永久に続けるということはできない。要求を続けようとすれば、デモ隊は変質せざるを得ないであろう。政権は、世界はどう対処しようとしているか。少なくともこのエネルギーを無にしてはなるまい。そろそろエジプト等は、デモ禁止令を出し始めている。

中東・北アフリカと地中海対岸の国々

国 名    人口(万)   密度1km2   国民所得一人/ドル   
モロッコ   3,238.1 72.5   2,520.
アルジェリア 3,238.1  14.9   4,190.  
チュニジア  1,037.3  63.4   3,480. 
リビア     654.5    3.7      12,380.
エジプト    8,447.4  84.5   1,800.
ヨルダン     647.2  72.4   3,470.
イラク     3,146.6  71.8    796.
バーレーン    80.7  1,076.  25,420.
サウジアラビア 2,624.5  12.2   17,870.
イエメン    2,425.5  45.9    960.
オマーン     290.5  9.4   14,330.
クウェート    305.  171.2  43,930.
イラン     7,507.7  46.1   3,540.
ジプチ      87.9  37.9        1,130.
------------------------------------------------------------------------------
スペイン     4,531.6   89.6      31,970.
アンドラ       8.6  185.2      36,970.
フランス     6,263.6  113.6       42,000.
モナコ        3.2  16452     211,501.
サンマリノ      3.1 517       46,770.
イタリア     6,009.7  199.4      35,460.
マルタ       40.9  1297.5      16,690.
クロアチア     440.9   77.9      1,358.
モンテネグロ    62.5    45.3      6,600.
アルバニア     316.9   110.2      3,840.
ギリシア     1,118.3   84.8     28,400.
キプロス       87.9   95.1     26,940.
トルコ      7,570.5   96.6      9,020.
シリア      2,250.5   121.5     2,160.
イスラエル     728.5   330.1     24,720.

以上。人口は2010年、国民所得は2008年現在。

2011.2.20 田沼

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# by esapp | 2011-02-22 10:27

ふじみ野通信14 「平和」を求める人々(1)

 アメリカもいっては語弊があるかもしれないが、為政者も人民もみな「平和」を求めている。平和であれば、今日の計画は明日に続いていくわけである。今日が明日に続かないのでは、為政者にとっても人民にとっても生きていく路は厳しいといわざるを得ない。しかし、それが変革を与件として内蔵しているものにとっては、変革の明日は理の当然である。つまり、変革を「内蔵」していないものにとっては予想していない明日があり、「内蔵」しているものにとって今日はやはり明日に続いていたわけである。

 2010年までの我々の注目は、リーマンショック後の世界の経済の立ち直りであり、企業経営の上昇であり、政治は画期的ではあり得ないにしても「平和」にことは進むであろうと思っていたはずである。株価もどうにか戻りつつあり、日本についていえば物価も上がらず円高といっても企業の海外展開は順調に進んでおり、上場企業の業績は史上初めてであるといえるほどの好決算である。人民にとってただ惜しむらくはこの企業の好決算が実感できないことであった。

 街を流しているタクシーの運転手さんも、街中の庶民百人に聞いても「景気がいいですね」とは、誰もいわなかったはずである。2000年からのサラリーマンの給与は、逆に23パーセントも下がっており、累進課税が緩和された役員給与や配当などの所謂経営配当と株主配当だけが上がっていたからである。その結果、あまり明らかにされてはいなかったが所得格差が広がっていることは予想はされていた。多分、それでも庶民が「平和」であり得たのは、円高のために野菜などの生鮮食料品などを除く消費者物価が下がっていたからであったろう。

 一時期、問題にされた派遣切りも徐々に解消され、失業率もこれからは解消されていくのではないか、と法人税の引き下げなどもいわれている折から期待されていた、と言っていいであろう。

 誰もといっては語弊があるが、日本企業の進出先の労働者給与など「進出することによって少しはよくなることがあっても下がることはあるまい」という程度の認識だったのではあるまいか。まして、産油国や北アフリカの実情など知るよしもなかったというのが実態であったろう。

 2010年末から伝えられる中東産油国の周辺と、北アフリカで起きつつある政変はいわれてみれば何時起きてもおかしくない実態であると思える。1952年にエジプトの王政を倒してエジプト共和国としたナセルの「自由将校団」はそれなりに輝かしい登場であった。丁度その頃は、日本は朝鮮戦争後の不景気と政治的な停滞期にあってエジプトのニュースは久方ぶりの明るいニュースであった。しかも彼は1956年には、スエズ運河国有化宣言をして欧州の主要国-イギリス・フランス、イスラエルと対峙してスエズ動乱を戦い、更に大アラブの結束を目指し1958年、シリアと合邦して「アラブ連合共和国」を成立させるが失敗、1961年解消。1967年、再びイスラエルに向けて第3次中東戦争を起こすが敗北してシナイ半島とガザ地区を失う。

 1970年、ナセル急死。その後継者はサダト大統領。このころは日本国は60年安保の時代は終わって、ナセルの死は何か中東の革命の時代は終わって、イスラエルという存在が確固としてきて、アラブがどんなに勢力を糾合しようともイスラエルには勝てない。そういう感じが強まっていた。結局、引き続いて起きた第4次中東戦争においてもアラブの勝利とはならずに、エジプトは運河とシナイ半島の砂漠を返してもらったにすぎなかった。

 それも国連の調停によるものであって、勝利というものではなかった。結局、第一次中東戦争から続いた中東の戦乱というか、革命の時代は調停調停を重ねて共和制を作り、スエズ運河を国有化することはできたが、代償としてアラブの問題を複雑化し250万に及ぶ難民を生んだのにすぎなかったようにも見える。そしてこの問題は、引き続いて今日に及んでも、ある種「世界の問題」として登場しないことはない。この過程で生じた中東産油国での油田鉱区国有化問題は、ある程度進んだということは出来るか、この難民問題を巻き込んだ形での解決には向かわなかった。

 2010年暮れから続いたこの中東の「民主化」運動といわれるものによって明らかにされた状況を見ると、「ああ、こういう状況がエジプトにもあったのか」と思わせるものがある。例えば、国民の平均収入が年間一人1800ドル、しかも米国の軍事援助が年間13億ドルで駐留軍までいたというのは、やはり驚くに値する。アメリカがイスラエルにたいして毎年20億ドルの支援をしているというのは、噂ではよく聞いていたことであったが、このエジプトにたいする援助もアメリカの「平和」に対する支出であったのであろうか。もしそうだとすれば、アメリカの「平和」に対する思考とはどのようなものあろう。

 援助というのは、単純化していえば現体制の保持が前提であろうから、現体制に対して過剰な防御に働くことは明らかである。つまり、欠点が仮にあったとしても実力以上に現体制を保持してしまうということになろう。例えば、アラブの問題として「難民問題」を考えようとすれば現状を保持することに加重される力によって、逆にそれが雲散霧消する力にもなってしまうであろう。

2011.2.20 田沼            

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# by esapp | 2011-02-21 14:07

ふじみ野通信13 アジアの平均寿命(7)・人口密度(9)・国民所得(7)の分析

 2009年の国連統計によると、世界の人口は約68億人、人口密度は平方キロ当たり50.2人である。地域別に見ると、平方キロ当たり、アジア129.3人、アフリカ33.2人、ヨーロッパ31.6人、北アメリカ22.1人、南アメリカ21.8人、オセアニア4.1 人である。
 
 人口でいえば、世界の60%がアジアに住んでいる。以下、アフリカ14.7%、ヨーロッパ10.2%、北アメリカ7.3%、南アメリカ5.56%、オセアニア0.4%の構成比である。

 では、面積で見るとどうであろうか。

 世界の総面積は、1億3629万1千平方キロ。このうちアジアは3197万2千平方キロ、率にして23.4%。アフリカは3032万8千平方キロ、率にして22.2%。以下、ヨーロッパ2313万9千平方キロ、16.9%。北アメリカ2450万3千平方キロ、17.9%。南アメリカ1783万4千平方キロ、13%。オセアニア851万5千平方キロ、6.2%である。
       
 確かに、人は広さを求めてこの歴史を生きてきたのではないであろう。それでは気候だろうか。沢山の食糧だろうか。其れとも心地よい住居だろうか。伝統或いは文化だろうか。また、これらのすべてを解決するかに思われるような黄金に結果されるようなものなのであろうか。

 いずれにしても、人類の誕生から数万年の間に、今日のような分布を作り出したのには違いないのである。したがって、この構成比は今後、いろいろな活動、経済活動や政治活動を通じて大きく変わっていくであろう。例えば、リーマンショック以後の企業活動は諸国の国民所得を年ごとに変えていくであろうし、今現在でも既に2011年現在の姿は変わっている筈である。それが今後、年を追ってどう変わっていくか興味の尽きないところである。

 此処で取り上げようとしている寿命は、基本的に人間の求めてきた一つの柱であることは間違いないであろう。しかし、それが人口密度とどう関わってくるのか、また、国民所得と理論値としてどう相関するのか、それはわからない。が実績値としてみた場合には何事か浮きでてくるかもしれない、と言うのがこの項のテーマである。

(1)平均寿命60歳台のアジア 20カ国

国名         平均寿命  人口密度  国民所得      
1. アフガニスタン    43.6才   43.1人  345ドル    
2. イェーメン      62.5才   44.6人  870ドル
3. イラク        67.8才   70.1人  2,406ドル
4. インド        63.4才   364.4人  950ドル   
5. ウズベキスタン    67.6才   61.4人   730ドル 
6. カザフスタン     64.9才 5.7人 5,020ドル
7. カンボジア      60.6才 81.7人 550ドル
8. キルギス       67.6才 27.4人 610ドル
9. タイ         68.7才 132.人 3,400ドル
10. タジキスタン     66.4才 48.5人 460ドル
11. 北朝鮮        67.1才 198.2人 617ドル
12. トルクメニスタン   64.6才 10.4人 1,374ドル
13. ネパール       66.3才 199.2人 350ドル
14. パキスタン      66.2才 227.1人 860ドル
15. バングラデッシュ   65.7才 1,126人 470ドル
16. 東チモール      60.7才 72.6人 1,570ドル
17. ブータン       65.7才 18.1人 1,770ドル
18. ミャンマー      61.2才 73.9人 386ドル
19. モンゴル       66.2才 1.7人 1,290ドル
20. ラオス        64.2才   26.6人 630ドル

・平均寿命は2007年、人口密度は2009年、一人当たり国民所得は2007年現在。以下同じ

・平均寿命60才台の国20カ国のうちで、国民所得が1000ドルを超えている国はイラク・カザフスタン・タイ・トルクミニスタン・東チモール・プータン・モンゴルの7カ国である。人口密度が100人を超えているのは、インド・タイ・北朝鮮・ネパール・パキスタンの5カ国である。この二つの分類にも、何れ解明できる要因が見つかるような気がするが、手元の資料のみでは不明である。

( 2 ) 人口密度 1000人超のアジア 4カ国 2特別区

        国名       平均寿命  人口密度  一人当たり国民所得
1. シンガポール 80.2才 6,718人 32,340㌦
2. バーレーン 75.6才 1,054.6人 17,390㌦
3. バングラデッシュ 65.7才 1,126人 470ドル
4. モルジブ 71.1才 1,030.0人 3,190ドル
5. 香港特別区 82.2才 6,390.4人 31,560ドル
6. マカオ特別区 84.4 才 19,852.6人 42,386ドル

・人口密度が1000人超の国で、平均寿命が70才以下の国はバングラデッシュのみである。国民所得が1000ドル未満の国もバングラデッシュのみである。此処には、ある種の特殊事情を認めざるを得ないかもしれない。また、特別区である香港・マカオ、そしてシンガポールの人口密度の高さと国民所得の高さと平均寿命の高さにも特殊な相関性が認められるかもしれない。マカオにいたっては、高寿命国とされている日本よりはるかに高い平均寿命である。これは単に偶然のもたらした平均値の相関性なのかどうか。

( 3 ) 国民所得 一人当たり1000ドルのアジア 34カ国

        国名 平均寿命 人口密度 一人当たり国民所得
1.  アゼルバイジャン 70才 101.9人 2,640ドル
2. アラブ首長国 77.3人 55.0人 41,031ドル
3. アルメニア 73.6才 103.6人 2,630ドル
4. イスラエル 80.7才 324.8人 22,170ドル
5. イラク 67.8才 70.1人 2,406ドル
6. イラン 71.2才 45.5人 3,540ドル
7. インドネシア 70.5才 123.6人 1,650ドル
8. オマーン 75.5才 9.1人 12,870ドル
9. カザフスタン 64.9才 5.7人 5,020ドル
10. カタール 75.5才 121.6人 72,795ドル
11. キプロス 79.6才 94.1人 24,940ドル
12. グルジア 71.6才 61.1人 2,120ドル
13. サウジアラビア 72.7才 11.9人 15,450ドル
14. シリア 74.1才 118.2人 1,780ドル
15. シンガポール 80.2才 6,718人 32,340ドル
16. スリランカ 74才 308.4人 1,540ドル
17. タイ 68.7才 132人 3,400ドル
18. 大韓国 79.2才 484.8人 19,730ドル
19. 中国 72.9才 142.1人 2,370ドル
20. トルクメニスタン 64.6才 10.4人 1,374ドル
21. トルコ 71.7才 95.4人 8,030ドル
22. 日本 82.7才 336.4人 37,790ドル
23. パレスチナ 73.3才 645.1人 1,290ドル
24. バーレーン 75.6才 1054.6人 17,390ドル
25. 東チモール 60.7才 72.2人 1,570ドル
26. フィリピン 71.6才 306.6人 1,620ドル
27. ブータン 65.7才 18.1人 1,770ドル
28. ブルネイ 77才 69.3人 26,740ドル
29. マレーシア 74.1才 83人 6,420ドル
30. モルジブ 71.1才 1,030人 3,190ドル
31. モンゴル 66.2人 1.7人 1,290ドル
32. ヨルダン 72.4才 70.6人 2,840ドル
33. レバノン 71.9才 404.1人 5,800ドル
34. クェート 77.5才 167人 38,420ドル
以上
上の区分、60才台の平均寿命、1000人以上の人口密度、国民一人当たり1000ドルの国民所得、の3つの基準の何れにも該当しなかった国はベトナム一国である。国民一人当たり所得が1000ドル以下の国々は、いずれも平均寿命は60才台であるが、ベトナムだけは74.5才である。また、平均寿命が70才以上の国々の一人当たり国民所得はいずれも1,000ドルを超えているがベトナムは770ドルである。人口密度も265.8人で決して低くはない。

人口密度が100人を超え、平均寿命が74.3才でありながら国民所得が1000ドルに達していないというのはベトナムの他に例をみないから、それがベトナム戦争であるかどうかは別にして、此処にはやはりある特殊事情を認めざるを得ないであろう。

2011.1.17 田沼

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# by esapp | 2011-01-17 09:33

ふじみ野通信12

(3)中国の「骨格」について
  中国は、その面積963.4万平方キロ、人口9年で13億6,920万人(台湾・香港・マカオを含む)、人口密度142人/平方キロの大国である。(9年)

 北から黒竜江省heilong jiangは、東北3省の北端である。北はアムール川を挟んでロシアのkhabarovskまで国境を接している。東はkhabarovskからウスリー川を国境としてダーネルチンスク迄、ダーネルチンスクからhunchumまではロシア国境である。極めて海の近くまで国境は伸びているが海にはいたらない、海岸線はロシア領から北朝鮮に続いている。Humchumからは北朝鮮との国境でdandongでKorea bayにいたる。

 黒竜江省と接して西のロシアとの国境線は内モンゴル自治区で有るが、そこに至るまでmanzhouli、heihe、khabarovsk等数カ所にboundary in disputeがある。

 内モンゴル自治区は、満州里manmzhuliからモンゴル共和国と国境を接して新疆ウイグル自治区xinjiangまで続いている。およそモンゴル共和国との国境線の3分の2は内モンゴル自治区との国境線であり、その余の3分の1は新疆ウイグル自治区との国境線につづいていく。モンゴルとの国境が終わると、わすかにロシア領と接しているが、新疆ウイグル自治区は更に西の国境にいたる。そして、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタンと接して西の南端のパキスタンのカシミールにいたる。

 このカシミールから雲南yunnanまでは、カラコルムからつづく巨大なヒマラヤ山脈である。ここには、boundary claimed by indiaの地域が数カ所あって正確な国境が定まっていない所も有るが、ここから中国の南の国境になる。省はチベット自治区xizangとなり、国境はインド、ネパール、ブータン、そしてまたインドと接して、ミャンマーとわずかに接するあたり、gongshanの手前で雲南省yunnanである。
 
 そしてこのチベットと新疆ウイグル自治区と甘粛省gansuと四川省sichuanとに囲まれた山間の省が青海省qinghaiである。この青海省と四川省はいずれの外国とも接していない。

 雲南省は南の国境沿いにミャンマー、ラオス、ベトナムと接しているが海にはいたらない。雲南の次の南の国境をなしているのは、Guangxi広西チョワン族自治区である。広西チョワン族自治区はベトナムと国境を接して海にいたっている。トンキン湾である。

 つまり中国は、北、西、南と三方を自治区に囲まれた内側に、海に向って開かれている立地になっているわけである。経度にして98度から74度まで24度、実測にして約4488キロ、南北はアムール川の中ロ国境から海南省Hⅰnanまで、緯度にして18度から54度まで約3,950キロである。

 次に行政区にしたがって、省名と人口を紹介すると次の通りである。
北から「東北区」人口10,874万人(8年)
遼寧省lianning(人口4,315万人、人口密度296人)、吉林省jilin(人口2,734万人、人口密度146人)、黒竜江省heilongjiang(人口3,825万人、人口密度84人)   
「華北区」人口15,682万人(8年以下同じ)
北京市bejing(人口1,695万人、人口密度1,009人)、天津市tianjin(人口1,176万人、人口密度1,040人)、河北省hebei(人口6,989万人、人口密度372人)、山西省shanxi(人口3,411万人、人口密度218人)、内モンゴル自治区nsaimongol(人口2,414万人、人口密度20人)。
「華東区」人口38,241万人
上海市(人口1,888万人、人口密度2,977人)、江蘇省shanxi(人口7,677万人、人口密度748人)、浙江省zhejiang(5,120万人、人口密度503人)、安徽省anhui(人口6,135万人、人口密度439人)、福建省fujian(人口3,604万人、人口密度297人)、江西省jiangxi(人口4,400万人、人口密度264人)、山東省shandong(人口9,417万人、人口密度601人)。
「中南区」人口36,734万人
河南省henan(人口9,429万人、人口密度565人)、湖北省hubei(人口5,711万人、人口密度307人)、湖南省hunan(人口6,380万人、人口密度301人)、広東省guangdong(人口9,544万人、人口密度536人)、広西guangxiチョワン族自治区(人口4,816万人、人口密度204人)、海南省hainan(人口854人、人口密度252人)。
「西南区」人口19,597万人
重慶市chongqing(人口2,839万人、人口密度345人)、四川省sichuan(人口8,138万人、人口密度167人)、貴州省guizhou(人口3,793万人、人口密度215人)、雲南省yunan(人口4,543万人、人口密度115人)、チベット自治区tibet自治区(人口287万人、人口密度2人)。
「西北区」人口9,693万人
峡西省shaanxi(人口3,762万人、人口密度183人)、甘粛省guansu(人口2,628万人、人口密度58人)、青海省qinghai(人口554万人、人口密度8人)、寧夏ningxiaホイ族自治区(人口618万人、人口密度119人)、新疆xinjiangウイグル自治区(人口2,131万人、人口密度13人)
特別区 人口3,058万人
香港特別行政区hongkong(人口705万人、人口密度6,390人)
マカオ特別行政区macao(人口55.9万人、人口密度19,852人)
台湾taiwan(人口2,297万人、人口密度638人)

人口構成は、華北区     15,685万人 内自治区2,424万人
華東区   38,241万人
中南区   36,734万人  うち自治区  4,816万人
西南区   19,600万人  うち自治区   287万人
      西北区   9,693万人   うち自治区  2,749万人
      特別区   3,058万人
        8年合計  12億3,011万人  うち自治区1億2,563万人
       自治区以外11億447万人  自治区以外の面積523.8平方キロ
       聡人口密度 127.7人/平方キロ(8年) 
       自治区以外の人口密度 210.9人/平方キロ(8年) 
以上

2010.11.27 田沼

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# by esapp | 2010-12-31 19:45

ふじみ野通信11 メディア・コンパス5

(1)「国」の形について
・抗争
 国家について考えてみたい。「幸福の尺度」を書きはじめてみて、その尺度が様々な「幸福」に向う諸制度によって形作られるにしても、その社会の成り立ちガ抜きがたい問題を提示しているのも間違いない。例えば、スウェーデンは高福祉国家であると言われるが、現在の制度がそうであるのは認められ得るが、日本と比べれば人口が違う、気候も違う、その成り立ちも違うから単純に比較することは出来ない。

 結局、現実的な制度は、そのときの現実的なその国の人々が何を求めているかというエネルギーによって、またそのエネルギーが集約されることに成功したときにはじめて可能になる。というふうな結論にならざるを得ない。平均所得が高いことだけが尺度でもありえないし、平均寿命が高いことだけでも尺度にはなりえない。少なくとも、集団の大きさということが大きなメルクマールとなる事も考え得る。

 そのように考えたときに、現実にある国家の不思議というのはどうしても解明してみたい。または解明とはいわないまでも考えてみたい。そうしないと、第二次世界大戦の後、世界のすべてが、はじめて平等に近い立場に立ったのに、例えば、ヨーロッパは7億人45カ国位が高所得を得て更に進んで国家集団になろうとしているのに、アフリカは未だに低所得に喘ぎ10億人ぐらいの国が53カ国ぐらいに別れて、しかもその53の国の中で更にいくつもの抗争をしている。

 抗争というのは、簡単に言えば国の姿に対して主張したい思いである。しかし、主張は主張者が何者かによって与えられて武器をともなうとすれば、単なる主張では終わらない。一国の独立の利害が、一国の範囲を超えていくことになる。例えば武器の製造技術も持たない国が、その主張のために武器を持てば、製造技術を持たない国の風土に反するであろう。武器を与える側には様々な利害があり得るであろうが、民族なり集団が独立をえようとすれば、そのフィールドの上でこそ議論はなされるべきである。その意味では、アフリカの将来の姿はまだわからない。

・大国「インド」の形
 それに対して、近代の欧米列強の植民地戦争の中で、植民地化されたり侵略されたりした大国、インドや中国はどうして昔のママに見える国の形をしているのであろうか。

 例えばインドは、英国の植民地の歴史であった歴史はムガール王朝時代の侵略から数えれば400年、うち直接支配時代であるインド帝国の時代は100年にも満たないであろうが、何故彼らは宗教も違い、言語も違う人々の集まりであるにすぎないあの広大なインド亜大陸を人々の意志によって集約されるべき一つの国、「インド」国と認識していたのであろうか。長い年月に渡る諸民族の流入の歴史からすれば、インド亜大陸は一つの国として統一していくのには、如何にも複雑な歴史をもっているように見える。

 1945年以後の国内の騒乱をえてバングラデッシュやバキスタンと分国する事にはなったが、当時、ガンジーやネールをあげるまでもなく、この大国をできるだけ一つの国にしたいという思いは強かったように思われる。独立にあたって、積極的に武器をとった戦争になることはなかったが、独立後はしばしば紛争している。しかし、国境問題にしても原子力開発競走にしても、何処か、かつてインド亜大陸の住人だったこの三国の紛争にはには近親憎悪に近いものが感じられる。

 もしかしたら、三国のそれぞれの国の方向に「インド亜大陸」の思い出が影を落としているのであろうか、とさえ思われるのである。説明によれば、この3国の独立、或いは分国の理念は宗教と言語と土地による区分であったようにいわれるが、宗教と言語の共通性のみで一国の政治経済は成り立ちにくいであろう。現に、あるバングラデッシュとインドとパキスタンの人口密度の較差をみても其れは明らかである。

 例えば、バングラデッシュの人口密度は1126人/平方キロである。人口密度の高いといわれる日本でも330人/平方キロである。しかも日本の人口は1億2千7百万人で一人当たりの国民所得は37,790㌦あるであるが、バングラデッシュは総人口1億6千万人で一人当たりの国民所得は07年で470㌦である。

 インドは人口密度364.4人/平方キロ、総人口11億9,800万人、国民一人当たりの所得950㌦である。パキスタンは人口密度227人/平方キロ、総人口1億8,080万人、国民一人当たり所得860㌦である。これを3国が分国する前の総計で考えてみると、総人口が15億3,800万人、人口密度363.9人/平方キロ、国民総所得が1兆2,861億ドル一人当たりになおして836.2ドルである。

 このような国は他に例をみないが、総人口において世界一、人口密度においても成熟期にある国ということが見えてくる。だとすれば、後の目標は国民所得の増加という事に尽きるであろうが。 

・「中国」の形
 また中国は、確かに10年にわたる国民党軍と紅軍の国内戦争はあったが、次第に国内の世論が外国からの干渉もいれて集約されて形勢は定まっていったようである。結局、国民党軍は大陸から追い出されて台湾に閉じ込められる結果になったが、この台湾政府も大陸の中国政府も合わせて「中国だ」という主張は今も変わらないように見えるのである。

 しかも、現代のこの「中国」の形というのは、何時、誰によって創られたイメージであったのだろうか。少なくとも、この抗争した二つの勢力には統一すべき「中国」或いは「中華」のイメージがあったように思われるのである。

 漢にまでさかのぼらなくとも、わが国の遣隋使を派遣した頃の「中国」はモンゴルもチベットも入らない。だが、唐になると西はサマルカンドを越えてアラル海まてその領土を広げ、南はベトナムまでいたっているが、ここでもチベットや雲南は含まれていない。この7世紀の中国は世界に冠たる文明国であった。隋は科挙の制を入れて人材の確保に務め、均田制による財政の確立を計った。しかし、高句麗遠征に失敗すると代わって登場するのが唐である。唐は隋の科挙や均田制を引き継いで租庸調を加えて兵農一致の府兵制を基礎に置く律令制を行った。この唐では国際色が豊かとなり詩の李白、杜甫、白居易等が生まれ、書の顔真卿、仏教の玄奘、山水画の碁道玄らが登場して、首都長安や広州・揚州にはイランやアラブの商人などが盛んに往来した。宗教ではゾロアスター教、マニ教、キリスト教、イスラム教等がはいって、盛んに信仰された。

 唐の時代が終わると、中国は再び分裂状態になる。唐時代を支えた貴族階級が衰えて新興の地主階級が登場する。そして宋がおこるが異民族の攻勢に押されて南宋となる。長江下流域の開発を進めて栄えるが、領土的には准河の南から広州まで、雲南・チベットを避けて長江の流域のみに限定された。13世紀にモンゴル帝国によって亡ぼされる。
 
 13世紀は元の時代で、領土のもっとも大きくなった時代である。西はヨーロッパまで、北はバイカル湖まで、南はミャンマー、チベットはもちろんコンスタンチノーブルの地中海までいたっている。しかし、元の支配は14世紀まで続くが13世紀の終りには、ジンギスハンはその息子達がそれぞれその占領地を分国して独立させたためにモンゴル帝国は事実上分裂することになった。

 次に登場するのが明である。明は14世紀の終りから17世紀半ばまで、北はウラジオストックにいたり南はベトナムにいたったが西はトルフアンにもいたらず、チベット、モンゴルも支配の外であったが、朱子学を採用して科挙を確立し、新しい律令を定めて皇帝専制の政治体制の基礎を創った。17世紀になって明に代わったのが清朝である。清は台湾を平定し、南は広州、雲南迄、北はウラジオストックからアルグン川迄、西は青海までを直轄領とし、其れを取り囲むようにチベット、モンゴルからバイカル湖、トムスク、イリ、カシュガルを藩部として間接統治した。朝鮮、ベトナム、タイ、ミャンマー、ネパールを朝貢国とした。
 
 清朝は、20世紀のはじめの辛亥革命によって滅びるのであるが、今日の中国の領土的イメージはもっとも近いかもしれない。1689年のロシアとのネルチンスク条約で確保したアムール川流域を除くと、もっとも今日の中国に近い。チベット自治区も新疆ウイグル自治区も内モンゴル自治区も寧夏ホイ族自治区も含まれている。何故、これらの自治区が清朝に於いて直轄領ではなく藩部だったのかは明らかでないが、少なくとも清朝に取って中華の中心ではなかったのであったろう。

 もちろん、今日の中国にとって外モンゴルはモンゴル国として独立国となり、ベトナム、タイ、ミャンマー、ネパール、朝鮮等の朝貢国もそれぞれに独立国として時代の波に乗っており、国内の各自治区も発展している。広西チョワン族自治区にいたっては、人口4800万人を数え、GMの製造工場等の外国企業の進出も多い湾岸地帯を構成している。

 また、これらの地域が地勢学的に「中国」との関係が変わっていくわけではないであろうが、これからの歴史においても変わる可能性があるようには見えない。

 つまりいいたいのは、この二つの大国はいずれも20世紀の半ばの世界革命期には、侵略される側であったにもかかわらずいまだにその姿を崩さないでいるのは何故か。別の言い方をすれば、現代社会の中でこの二つの大国は我々にとってどのような現実であるのかを感じてみたかったのである。

 建前上は、そういう事もあるが、この2010年の現在では、日本の企業世界の仕事がアメリカ、ヨーロッパから反転して、東南アジアはもちろん中国、インドからアフリカに及ぼうとしているのに、我々の認識は余りにも古い。あるいは企業情報は知らないが、例えば彼らが、と言うのはわが国の「会社」がであるが、「中国では」と言うときにどのような中国をイメージしているか。「インドは」と言うときにどのようなインドをイメージしているのか、はなはだ怪しいと思えるからである。それほど我々はこの大国に対して現実的な認識も情報ももっていないといえるからである。

 企業会社もおそらく、国際弁護士に保証された商売相手のイメージしかないのではないだろうか。それでいいと、或いは信じているのかもしれない。
 
 しかしそれでは其れが良きにつけ悪しきにつけ、我々はその企業活動によってもたらされた結果について判断する情報が与えられる事が出来ないであろう。企業活動つまり経済活動は、企業の認識はともあれいずれ我々生活者に関わってくる事は紛れもない事であるから、経済新聞の半端な海外知識のみでは多分、推し量る事は難しい。

(2)インドの「骨格」について
インドの国土は、大きくはネパール、ブータン等を含むカラコルムから続くヒマラヤ山脈によって中国と区分されている。極端にいえば、カラコルムを源流として南下してアラビア海に注ぐのがインダス川であり、その流域はパキスタンである。同じくカラコルムからヒマラヤ山脈にそって東に流れ下っていくもう一つの大河がガンジス川で、河口はバングラデッシュのダッカである。ガンジス川の蜘蛛の巣のような支流を含めた流域がインドの中心である。インドは、更にこのガンジスの流域の南に二つの小山脈を挟んで広大なデカン高原を抱えている。

 ガンジス川は、カラコルムのjammu-kashimir州(人口771万8700人)、himachal-pradesh州(人口511万1079人)、デリーと隣接するutter pradesh州(1億3903万1130人)、biher州(人口8633万8853人)、west bengal州(6798万2732人)、と東遷してバングラデッシュのダッカに注ぐ。ここまでの流域がインドの中心である。

 ガンジス川は、バングラデッシュのダッカの注ぎ口の上で左右に別れ、左は先のカラコルムに向う流れであり、右はブータンに向って北上して突き当たったところがassam州(人口2229万4562人)、そこから南下してmeghalaya州(人口171万人)、nagaland州(人口121万人)、更に南下してミャンマーとの国境沿いにmanipur州(182万人)、tripura州(人口274万人)、mizoram州(68万人)と続いてバングラデッシュの東側の海に注ぐ程南下する。

 一方、中心部のインドはパキスタンとの国境沿いにpunjub州(2019万人)、haryana州(人口1631万7715人)、インドで唯一の沙漠の国立公園のあるrajasthan州(人口4388万640人)、gujarat州(人口4117万4343人)と下ってアラビア海に至る。gujaratの東がインドの丁度中心でmadhya pradesh州(人口6613万5862人)である。南に高さはさほどでもないが、南と北をわけるふたつの山脈、vindhya山脈とsatopura山脈を控えている。それを越えると南はデカン高原である。

 デカン高原は、東西に海岸沿いの長い山塊を抱えている。西のwestern ghats沿いに北から見ていくとbombyのあるmaharashutra州(人口7874万8215人)、goa(人口116万人)、と隣接するbangaloreのあるkarnataka州(人口4480万6468人)、突端の西kerala州(人口2903万2828人)。
東はeastern ghats沿いにbihar州の下から、orissa州(人口3151万2070人)、hyderabadのあるandhra pradesh州(6633万4339人)、そしてデカン高原の南端tamil-nadu州(5563万8318人)である。この二つの流れが合わさった先の海はインド洋である

 此れを北インド、東インド、中央インド、南インドに仮に区分けして人口を出してみると次の通りである。
      北インド         3,061,82,494人.
      東インド          30,454,562人
      中央インド        128,177,075人
      南インド         307,232,238人
       合計          772,046,369人.
           その他直轄地  113,888,777.

 この人口統計は、1,992年の推計で総計8億8,960万3,000人ある。 北インドの仕切りは、カシミールからアッサムの手前まで。アッサムからバングラデッシュを囲むようなミャンマーの国境までを東インド、カシミールの南から西ベンガル迄中央インド、南インドはすべてデカン高原の人口である。比べてみると、南インドの発展が大きいようであるが詳細はわからない。

 国連統計によると、2,009年の総人口は11億9,800万人である。
平均寿命は   2,007年    男子  62才    女子  64.9才
          1,991年        58.1才       59.1才 
          1,951年        32.45才       31.66才 
資料「ブリタニカ国際大百科事典」より

2010.11.20 田沼

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# by esapp | 2010-12-31 19:42

ふじみ野通信10 2010年の暮れ

1.日本企業の海外進出
 2008年のリーマンショック以来、ただひたすら経済混乱に絶える以外なかったような日本企業は、年余をおかず動き出して、中国・東南アジアに向けて進出しだしたように思われる。今年の暮れは少なくとも上場企業においては、少数の例外を除いては好況に恵まれ、今後の展望も中国・アジアにむけて開かれた様である。

 年末の各業界のボーナス回答率を見ると、其れもうかがわれるようである。

 前年比で見ると、製造業で2.3%のプラス、非製造業でマイナス1.23%の伸びである。二桁の伸びを記録しているのが、繊維、精密機械、倉庫・運輸。5%以上が化学、ゴム、機械、電機、自動車・部品、水産、ホテル・旅行、情報・ソフト。もちろん日本の成長率が数%であることは、全体にも影響を及ぼしている。例えば、鉄鋼は26%の減少、レジャー・マスコミ関連が10%の減少である。その他業種で減少の目立つのは、国内需要依存型の産業で、百貨店・スーパー、その他の小売業、鉄道・バス、陸運、外食産業等である。総じていえば、海外進出におくれた業種、或いは内需型の業種がマイナス、その他は大小の差はあるが前年を上回る結果になっている。

 今年の海外進出というのは、もちろん欧米ではない。

 最近の中国の発表によると、中国への進出している日本企業は2万6千社に及ぶという。しかも、進出企業アンケートによると今中国で進んでいる賃上げ等の問題を考えても70%は、今後にそれ以上の成長を期待している。売上は150%と高い伸びを示しているが、収益率の低いインドにも1,000社を越える企業進出がみられるという。タイ・マレーシア・インドネシア・シンガポール等の東南アジアはもちろん、パキスタン、バングラデッシュ等の南アジア諸国、これから成長の期待されるカザフスタン・キルギスタン・トルクメニスタン等の北東アジアへの進出も良く聞かれるところである。
 
 しかしながら、このアジア進出は国内の輸出とか、内需に結びついているわけではないようである。アジア諸国で生産して生産国内需をみたし更に外国へ輸出するという構図で、この好況は今まで味わったことのないほど、日本の国内景気とは関わりが薄い。日本国に住んでいる我々には、この好況はピンとこない。つまり、現在好況は、それらの会社が内需には最早期待できない状況から、リーマンショック以降に活性化したアジアへ、アジアへと進出していって得た成果なのである。

2.リーマンショック後の世界経済
 国際取引所連盟(WFE)の調べによると、リーマンショックのおこる前、2007年暮れの世界の株式の時価総額は約58兆ドル。それがリーマンショックの伝えられた2008年9月には33兆ドル、底値になった2008年の暮れには29兆ドルまで下がったのである。58兆ドルから29兆ドルまで、株式時価総額が半減するのに2008年の約1年しかかからなかった訳である。

 株式の時価総額は、そのまま経済活動の規模の縮小を意味していたことは体験的に容易に想像できるが、世界規模となった場合の詳細は不明である。株式の時価が経済の流動性そのものとイコールであるという事は出来ないであろうが、経済活動が一時的にしろ停滞するほどの衝撃であった事はまちがいない。その時、下がりつづける株価を見て投資家はどのように次の「世界」を考えたのであろうか。

 少なくとも、投資すべき先がアメリカやヨーロッパではなくなった、有効な投資先はアジアや中南米の発展途上国に移ったのではないか、と考えたのではなかったろうか。我々が報道される企業の決算情報から見る限りでは、2009年は製造業に受注が集まり始めているが、それが一時的なものか、長期的な一つの流れになるものか、判断できかねるうちに生産拡大にはいっていったような印象を受けるのである。2009年は、上海や香港、ムンバイ等のアジアの株式市場が盛況を来していたが、日本の株式市場はそれに連動していないし、日本企業は何か及び腰に求められる需要に対応していたように思われるのである。

 もちろん、リーマンショックからの回復には日本もアメリカもヨーロッパも、国の財政を出動させて経済活動の促進をはかったのであったが、それでもアメリカやヨーロッパの経済不安はなかなか去らない。アメリカはAIGを救済して史上かつてないほどの金融緩和をしたし、ついにはFRBが2011年までに6,000億ドルの米国債を買い上げると言うありさまで来ている。日本も、一時は東京三菱銀行を除いて全銀行が国有化しかねないほどの公的資金を金融機関にいれているし、日銀の政策金利が零%という事態である。また、EUはギリシャやアイルランドでおこった財政危機の不安を未だに払拭しきれてない状態である。

 しかし、世界の株式の時価総額は2009年の1月を底に徐々に回復して、2010年の10月時点では遂に52兆ドルまで回復している。日本の株価もようやく1万円を上下するようになったし、アメリカの株式も1万ドルを越えるようになっているが、問題はその中身がどうなっているかである。先進国の株式市場の成長率よりも、はるかに途上国の株式市場の成長率のほうが高い筈であるから、52兆ドルの中身は大きく変わっているのではないかと思われるのである。そうなれば、当然企業のグローバル化は更に進まざるをえない。

 しかも今日の世界の流動性は明らかに過剰である。IMFの推計によると、2000年を100としたときの世界の経済成長は約190で二倍にも達していないが、ドルの流通量は3.5倍を超えている。これはそのまま発展途上国のインフレ要因になり得る。

 中国やインド等は、インフレリスクを放置できずに利上げに動き始めたが、利上げは更に投機マネーを呼び込み、自国の通貨高に進みかねない。輸出企業の競争力を保つためにドル買いの介入を増やすと、金融市場に自国通貨をバラマキ経済を過度に刺激してしまうと言うジレンマもある。このジレンマを解消しようとして、例えばタイやブラジル等のように資本規制すれば、何時投機マネーの反転が起こって自国の通貨危機がこないとも限らないと言う不安要素が生まれる、というわけである。

3.「世界経済の骨格」について
 例えば、リーマンショック後の日本経済の立ち直りには財政の力もあったであろうが、何よりもリーマンショック後に生じた発展途上国需要に答えられる生産技術と生産力を日本の企業がもっていた事が何より大きな要因だったのではないだろうか。そう考えると、何となく腑に落ちる。企業はそうではないかもしれないが、人も国も先進国の例を見るまでもなく、限りなく富と豊かさを求めるものだとは思えない。その国の文化と国土の広さと、民族にまつわる習俗と生涯にわたるささえを与える国、社会であれば人々は満足するのではないだろうか。

 もともと各国の経済の規模や厚みには、歴史的な事情が影響している。高い国民所得を得ている国は、第一に国民の数が多くなければならないであろう。少ない数の国民が何処よりも大きい経済規模を持つのは、いずれ平準化されざるをえない逃れ歴史である。余所の国の事をいいたくはないが、ヨーロッパの個人所得の高い小国は、それなりの寂しい事情があると言えるであろう。

 世界で、もっとも大きな国土をもっている国はロシアかもしれない。しかし、ロシアは広い不毛のタイガーやツンドラをもっている。たまたまそこから石油や鉱物資源がでてきたところで、巨大な富を国民にもたらす事は出来ない。多分、国としては、その資源をあきないながら暮らしていくしかないであろうからである。

 今、我々が考えなければならないのは、この地球上で限りなくに近いほど人口は増えつづけていくであろうという事である。その時、途上国もアフリカも含めてどのようにするか、どのように考えるべきであろうかという事である。人口でいえば中国である。インドであるが、地球の問題としては人口密度であろう。
 
 例えば、バングラデッシュにどうして1平方キロに1,126人も一人当たり470ドルの国民所得で16,000万人も集まって住んでいなければならないのだろうか。アメリカは32.6人が一人当たり46,000ドルの所得で32,000万人も集まって住んでいる。オーストラリアは2.7人が35,750ドルの所得で2,200万人が集まって住んでいる。ちなみに日本は336.4人が一人当たり37,790ドルの所得で12,750万人が集まって住んでいる。

 これは、一体どう考えるべき問題なのであろうか。

2010.12.27 田沼

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# by esapp | 2010-12-27 17:40

ふじみ野通信9 「幸福」の尺度

(1) 社会保障制度と生存年齢 

 日本が世界の長寿国になったのは、何年か前のことだと思うが、其れが或いは最も進んだ社会保障制度を持った国であるかもしれない事を意味するとは、正直な話思わなかった。もちろん、生きている内に人間が幸福であったか、不幸であったかは多分言うことができないだろう。わからないだろうということだが、其れは其れとして此処で考えてみたいと思ったのは、世界の求めてきた「国民の幸福の尺度」というのは「長寿」の事だったのではないか、ということである。国連の統計でも厚生労働省の統計でも出ていることだが、日本は年齢別構成ではもっとも老齢人口の多い国である。
 
 9年現在で、0~14才13%、15~64才64.3%、65才以上22.2%の人口構成である。

       ―――――――――――――――――――――――

 この統計をみて、今まで人は「困ったものだ、こんなに老人が多くては若い衆が一生懸命に働いても養うのに大変だ」。おまけに、この間発表された厚生労働省の統計によると医療費は75才以上で44%も使っている。此れでは日本は老人の国になってしまって、若者やこれから大人になっていく子ども達の未来はどうなっていくかわからない。

 社会保険に入って高い保険料を払っても将来は保証されないかもしれない。政府も財政赤字を垂れ流しているし、景気も悪い。企業も社会保険料の支払いに苦慮している。現に企業の健康保険組合は、財政難のために解散を余儀なくされているところが毎年のように数を増やしている。「自分の将来はそのようなものに依拠せずに、自分で貯蓄を運用したほうがよいのではないか」。

 だから保険料を支払わない、社会保険未加入の若者に増えているのは当然だ」みたいな論調がメディアにも随分と流れていて、いまでもある。

 此れは何を意味しているのか。我々は長寿であることに失望しているのだろうか。

 おとぎ話の時代から、おりんの時代から求めつづけてきた幸福の標が、多分、「長寿」である。そしてこの長寿である事に対応しているのが社会保障制度である。社会保障制度を受ける65才以上人口は、当然現役世代において相応の掛け金を支払わなければならないし、支払っているであろう。しかしながら、現役世代と受給世代の人口の格差、掛け金と予想配当率の乖離、経済成長と税収の乖離等、問題は尽きないであろう。

 例えば、1985年の「統計年鑑」によると、その時の65才以上人口の割合は10.1%であった。そして2010年には其れが18.8%になる、と予測している。1965年の実績では6.6%であったから、50年間に3倍弱になると予測したわけであるが、実際は09年で22.2%になっているから3倍超に増えている。65才以上人口を現役世代が養っている、という認識では4人の現役世代が1人の老人を養っていると数字になって、多分納得しがたい数字であろうし、そうであれば財政破綻は目に見えている話である。しかし此処にこそ、社会保障制度の意義があるともいえるであろう。

 つまり社会保障制度というのは、あくまでも国民の自主的な予測に基づいた計画と覚悟によって設計されているものでなければ成らない。其れでも、計画である限り絶えざる議論による修正が必要であろう。そして、その結果によってもたらされるのが現実の社会保障である。付け加えるなら、国民階制度であっても完璧ということはなかなかありえない、という認識も必要である。

 ただ、今はっきりしているのは、どのような事情があったにせよ、或いは議論があったにせよ今日の「長寿国」をもたらしたのは、日本の現在ある社会保障制度である事は、多分間違いのないことである。そして其れは自然になったわけでもないし、人々が求めつづけた結果やっと勝ち得たすぐれた成果であるというべきであろうと思う。

 アメリカのオバマ政権もこの社会保障制度のために、不評をかって中間選挙でも破れようとしているという。その理由は、此れ程の金を使って何者ともしれない、或いは貧困層にまで社会保障をする必要があるのか、ということであるらしい。
7年現在のアメリカの平均寿命は、日本の82.7才にたいして79.1才、9年の人口構成は
0~14才20.2%、15~64才67%、65才以上12.8%である。


 アメリカの健康保険の未加入者は15%、年金も含んでいるのかどうかはわからないが、アメリカの財政状態で――多分慢性的な赤字だと思うが、極めて難しい選択であることはまちがいない。しかし其れが平均寿命で3.6才、65才以上人口比で約10%の長寿をもたらすかもしれないとすればどうであろうか。「ブリタニカ国際百科」によれば、そもそも1900年現在のアメリカは、日本に比べて平均寿命で3才の長寿国だったのである。そしてその頃、自由の国アメリカは世界中の憧れの国だったのである。そういうアメリカに今、アメリカは別れを告げようとしているのだろうか。

(2) 旧友たち
 私は今年で74才になった。日本の社会保障制度も、そんなに前々からあったわけではなかった。大企業の社員比率が10%未満だった国である。体験的にいえば、第2次世界大戦の後、アメリカの影響と労働運動の高揚の中で労働分配率が指標となるようになって、やっと定着していったようである。私の義父などは昭和10年あたりから凸版印刷で働いていて、社員になって健康保険も入れるようになったのは昭和20年代も後半のことであったようである。詳しいことは、生きている内には聞けなかったが退職したのは30年代の終りで、ハッピーリタイヤーというイメージがあって、夫婦で旅行にでたり出来て、話しに聞く「老後」とはまったく違っていた。1992年に迎えた83才の天寿も穏やかなものであった。

 私は、昭和30年1,955年に宮城県立涌谷高校を卒業した。同級生は250名、そのうち男組は50名一クラスであった。全くとはいえないまでも就職のない時代で、卒業から5~7年はそれぞれに行方の定まらない状態で、このクラスメートの話しも20年か30年経ってから聞いた話である。

 結果的にいえば、50人の内、大学等に進学したもの15名、自衛隊に入ったもの19名、内専任自衛官になったもの4名、卒業と同時に地元の町村職員となったもの4名、家業を継いだもの3名、体技によってスカウトされたもの1名、縁故によって就職したもの8名である。そして自衛隊という経過、縁故就職という経過をえて最終的に地元と仙台辺りに止まって就職したもの25名、東京・大阪・名古屋、北海道とあるがその近辺で就職したもの25名である。

 このうち、現在までに地元・仙台組で4名、その他組で9名が亡くなっている。交通事故等を除けば、地元組1名、東京その他組8名は職場の定年を迎えた後に亡くなっている。地元を離れた組の32%である。全体では、まだ平均寿命に達していないが26%が亡くなっている勘定であるが、聞いているかぎり悲惨な例は少なかったようである。

 我々の世代は、確認した限りでは最終的な職場となったもの教員8名、町村4名、電気・電力・ガラス・機械・印刷・出版・国鉄・郵政・金融・ホテル・大学・自衛隊合わせて24名、自営業者11名、その他不明が3名である。これらの内、教員・役場・電気電力・自衛隊等は当然ながら社会保障は完備しているが、自営業は長い経営実績のある4社は確認できるがその他は不明の3名と共に実態は不明であるが、ほとんどが老齢にいたって多い少ないはあっても年金と健康保険に依拠して過ごしている。我々の親の世代にはなかったことである。

 以上述べた、体験的な事例は今日のデータの上ではどのような意味を持つのかはわからない。ただ、入社時から現在の社会保障制度の中で過ごした筈の我々の人生でも、それほど夢のような時代を過ごしたわけではないということである。それぞれに時代を覆う問題はあって、掛け金に苦労して議論したり迷ったりしてきたわけである。それでも、というのは国民階保険といいながら未だに、その恩恵に預かれないものもいるのが現実である。保証制度は、あくまでも保証制度であるから保証される為の掛け金がなくては成り立たない。今の65才以上も、それほど豊かな時代を生きてきたわけではないのである。

 現在、我々が集まれば年金と健康保険料の話題がでるのは仕方がないが、我々迎えている時代はどのような時代なのか、改めて話題としてあるべきだろうという気はしている。 次号以下にのべる、ヨーロッパ、アジア、アフリカとの比較検討はその為の縁とすべきものである。

2010.12.22 田沼 
  
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# by esapp | 2010-12-22 11:55

ふじみ野通信8 アフリカの平均寿命(07年)

 09年のアフリカの人口は、53カ国約10億981万5千人である。05年の調査では、9億407万6千人であるからこの四年間で9パーセントの人口増があったことになっている。また此れも、アフリカ諸国の特徴をなしているところであるが人口が1千万人以下の諸国が26カ国と、ほぼ半数を占めている。そして1千万以上諸国が27カ国で、09年の統計で9億1643万3千人と全体のアフリカ人口の90.7パーセントを占めている。

 手元にある資料が国連統計のみあるので、其れで見ると、03年の平均寿命はまだ40才以下が8カ国を数えていたが、07年ではすべて40歳代までに平均寿命はあがっている。

アフリカ諸国の平均寿命と所得(07年)
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 国 名    人口(千人)    所得(㌦)     平均寿命(歳)
アルジェリア   34,895.    3,620.(1,930)  72.2
アンゴラ     18,498.    2,540.(740)   46.5(39/42)
ウガンダ     32,710.     370.       51.9 
エジプト     82,999.    1,580.(1,390)  69.9 
エチオピア     82,825.     220.       54.7 
ガーナ      25,837.     590.       56.5
カメルーン     19,522.    1,050.(630)    50.9
ギニア      10,069.     400.        53.6
ケニア      39,802.     640.        56.8
コートジボアール   21,075.     920.        56.8
コンゴ      66,020.     140.        47.6
ザンビア     12,935.     770.        44.5(37/36)
ジンバブエ    12,523.     340.       43.4(37/36)
スーダン     42,272.     950.        57.9
セネガル     12,543.     830.        55.4
タンザニア     43,759.     410        55.0
チャド      11,206.     540.       48.6
チュニジア     10,272.    3,210.(2240.)   73.8
ナイジェリア    154,729.     920.       47.7
ニジェール     15,290.     280.       50.8
ブルッキナファソ   15,757.      430.       52.7
マダガスカル    19,625.     320.        59.9
マラウイ      15,263.     250.       52.4(39/39)
マリ       13,010.     500.       51.1
南アフリカ     50,110.    5,720.(2,750)   51.1
モザンビーク    22,894.     330.       72.1
モロッコ      31,993.     2,290.(1,310)  71.0
表は1千万以上諸国のみ。人口総計916,433(千人)。
( )内の数字は03年調査。人口のみ09年現在。
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・03年の調査では 、平均寿命が40歳以下の国は1千万以下の国も入るので一覧にすると次の通りであった。3年は男/女、7年は男女平均の歳。
      03年調査      07年の調査      伸長差
アンゴラ    39/42       46.5          6.5
ザンビア   37/36        44.5          7
ジンバブェ  37/36        43.4          6.5
スワジランド  32/32        45.3          13
中央アフリカ  38/40        46            7
ボツワナ    35/36        53.4         17.4
マラウイ    39/39        52.4          13
レソト     34/37        44.9          9

 凄まじい伸長さである。あるいは人口の流動性も高いのであろうけれども、アフリカ諸国の死亡率の減少には見るべきものがあるのかもしれない。現に人口の増加率は9%であるから、その分を解消しても平均寿命の伸長には余るほどの伸長がみられるということであろう。

 いずれにしても、全アフリカ諸国の平均寿命は既に40歳を過ぎて50歳を超えているであろう。人口1千万以上アフリカ諸国の平均寿命は55.6歳である。

 先に述べたように、1900年の日米の平均寿命は43.5歳と46.5歳であったから少なくとも それよりは10年余伸びている。環境は違うであろうが、其れから90年後の1990年までには、日本で 35歳、アメリカで約29年平均寿命は伸長しているから、此れをアフリカ諸国に当てはめて考えてみると言うのは少し乱暴かもしれないが、75歳の平均寿命にいたるのに後何年を要するか、というと51年から60年で至るという計算になる。

 もし仮に、07年で平均寿命30歳代を脱した上記8カ国のベースで平均寿命が伸長するとすると、どのくらいで75歳の水準に達するであろうか。8カ国の07年の平均寿命は47歳であるから、75歳まで28年である。03年から07年までの伸長率は毎年2.48年の伸長を見せているから11年余りで達してしまうという計算になる。

 しかしながら、一方で平均寿命というのは人口増加という環境の形成によってもたらされるというのが特徴であろうから、その面で考えてみると、その時のアフリカの人口はどの位になるだろうか。もちろん、人口の増加には食糧をはじめとする住環境の整備も、教育環境の整備も、そして何よりも経済環境の創成も必要であろうが。

 今後は日本が経験したような「戦争」も所与の事として計算してみると、日本の1900年の人口は約4千427万人であった。1990年ではもう人口増加は横ばいに近くなっていたが其れでも約1億2千5百万人であった。いろいろな構造改革、環境整備、或いは文化的な整備も含めて人口は約3倍に増加しているから、今日のアフリカも同様に発展していくとするとアフリカの「平均寿命75歳」の人口は約30億人にたっしていると言うことになろう。がしかし、この規模の人口の増加にはその他世界との相対的制約は避けられないから、こう単純には割り切れない。

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# by esapp | 2010-11-30 11:24