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ふじみ野通信

ふじみ野通信11 メディア・コンパス5

(1)「国」の形について
・抗争
 国家について考えてみたい。「幸福の尺度」を書きはじめてみて、その尺度が様々な「幸福」に向う諸制度によって形作られるにしても、その社会の成り立ちガ抜きがたい問題を提示しているのも間違いない。例えば、スウェーデンは高福祉国家であると言われるが、現在の制度がそうであるのは認められ得るが、日本と比べれば人口が違う、気候も違う、その成り立ちも違うから単純に比較することは出来ない。

 結局、現実的な制度は、そのときの現実的なその国の人々が何を求めているかというエネルギーによって、またそのエネルギーが集約されることに成功したときにはじめて可能になる。というふうな結論にならざるを得ない。平均所得が高いことだけが尺度でもありえないし、平均寿命が高いことだけでも尺度にはなりえない。少なくとも、集団の大きさということが大きなメルクマールとなる事も考え得る。

 そのように考えたときに、現実にある国家の不思議というのはどうしても解明してみたい。または解明とはいわないまでも考えてみたい。そうしないと、第二次世界大戦の後、世界のすべてが、はじめて平等に近い立場に立ったのに、例えば、ヨーロッパは7億人45カ国位が高所得を得て更に進んで国家集団になろうとしているのに、アフリカは未だに低所得に喘ぎ10億人ぐらいの国が53カ国ぐらいに別れて、しかもその53の国の中で更にいくつもの抗争をしている。

 抗争というのは、簡単に言えば国の姿に対して主張したい思いである。しかし、主張は主張者が何者かによって与えられて武器をともなうとすれば、単なる主張では終わらない。一国の独立の利害が、一国の範囲を超えていくことになる。例えば武器の製造技術も持たない国が、その主張のために武器を持てば、製造技術を持たない国の風土に反するであろう。武器を与える側には様々な利害があり得るであろうが、民族なり集団が独立をえようとすれば、そのフィールドの上でこそ議論はなされるべきである。その意味では、アフリカの将来の姿はまだわからない。

・大国「インド」の形
 それに対して、近代の欧米列強の植民地戦争の中で、植民地化されたり侵略されたりした大国、インドや中国はどうして昔のママに見える国の形をしているのであろうか。

 例えばインドは、英国の植民地の歴史であった歴史はムガール王朝時代の侵略から数えれば400年、うち直接支配時代であるインド帝国の時代は100年にも満たないであろうが、何故彼らは宗教も違い、言語も違う人々の集まりであるにすぎないあの広大なインド亜大陸を人々の意志によって集約されるべき一つの国、「インド」国と認識していたのであろうか。長い年月に渡る諸民族の流入の歴史からすれば、インド亜大陸は一つの国として統一していくのには、如何にも複雑な歴史をもっているように見える。

 1945年以後の国内の騒乱をえてバングラデッシュやバキスタンと分国する事にはなったが、当時、ガンジーやネールをあげるまでもなく、この大国をできるだけ一つの国にしたいという思いは強かったように思われる。独立にあたって、積極的に武器をとった戦争になることはなかったが、独立後はしばしば紛争している。しかし、国境問題にしても原子力開発競走にしても、何処か、かつてインド亜大陸の住人だったこの三国の紛争にはには近親憎悪に近いものが感じられる。

 もしかしたら、三国のそれぞれの国の方向に「インド亜大陸」の思い出が影を落としているのであろうか、とさえ思われるのである。説明によれば、この3国の独立、或いは分国の理念は宗教と言語と土地による区分であったようにいわれるが、宗教と言語の共通性のみで一国の政治経済は成り立ちにくいであろう。現に、あるバングラデッシュとインドとパキスタンの人口密度の較差をみても其れは明らかである。

 例えば、バングラデッシュの人口密度は1126人/平方キロである。人口密度の高いといわれる日本でも330人/平方キロである。しかも日本の人口は1億2千7百万人で一人当たりの国民所得は37,790㌦あるであるが、バングラデッシュは総人口1億6千万人で一人当たりの国民所得は07年で470㌦である。

 インドは人口密度364.4人/平方キロ、総人口11億9,800万人、国民一人当たりの所得950㌦である。パキスタンは人口密度227人/平方キロ、総人口1億8,080万人、国民一人当たり所得860㌦である。これを3国が分国する前の総計で考えてみると、総人口が15億3,800万人、人口密度363.9人/平方キロ、国民総所得が1兆2,861億ドル一人当たりになおして836.2ドルである。

 このような国は他に例をみないが、総人口において世界一、人口密度においても成熟期にある国ということが見えてくる。だとすれば、後の目標は国民所得の増加という事に尽きるであろうが。 

・「中国」の形
 また中国は、確かに10年にわたる国民党軍と紅軍の国内戦争はあったが、次第に国内の世論が外国からの干渉もいれて集約されて形勢は定まっていったようである。結局、国民党軍は大陸から追い出されて台湾に閉じ込められる結果になったが、この台湾政府も大陸の中国政府も合わせて「中国だ」という主張は今も変わらないように見えるのである。

 しかも、現代のこの「中国」の形というのは、何時、誰によって創られたイメージであったのだろうか。少なくとも、この抗争した二つの勢力には統一すべき「中国」或いは「中華」のイメージがあったように思われるのである。

 漢にまでさかのぼらなくとも、わが国の遣隋使を派遣した頃の「中国」はモンゴルもチベットも入らない。だが、唐になると西はサマルカンドを越えてアラル海まてその領土を広げ、南はベトナムまでいたっているが、ここでもチベットや雲南は含まれていない。この7世紀の中国は世界に冠たる文明国であった。隋は科挙の制を入れて人材の確保に務め、均田制による財政の確立を計った。しかし、高句麗遠征に失敗すると代わって登場するのが唐である。唐は隋の科挙や均田制を引き継いで租庸調を加えて兵農一致の府兵制を基礎に置く律令制を行った。この唐では国際色が豊かとなり詩の李白、杜甫、白居易等が生まれ、書の顔真卿、仏教の玄奘、山水画の碁道玄らが登場して、首都長安や広州・揚州にはイランやアラブの商人などが盛んに往来した。宗教ではゾロアスター教、マニ教、キリスト教、イスラム教等がはいって、盛んに信仰された。

 唐の時代が終わると、中国は再び分裂状態になる。唐時代を支えた貴族階級が衰えて新興の地主階級が登場する。そして宋がおこるが異民族の攻勢に押されて南宋となる。長江下流域の開発を進めて栄えるが、領土的には准河の南から広州まで、雲南・チベットを避けて長江の流域のみに限定された。13世紀にモンゴル帝国によって亡ぼされる。
 
 13世紀は元の時代で、領土のもっとも大きくなった時代である。西はヨーロッパまで、北はバイカル湖まで、南はミャンマー、チベットはもちろんコンスタンチノーブルの地中海までいたっている。しかし、元の支配は14世紀まで続くが13世紀の終りには、ジンギスハンはその息子達がそれぞれその占領地を分国して独立させたためにモンゴル帝国は事実上分裂することになった。

 次に登場するのが明である。明は14世紀の終りから17世紀半ばまで、北はウラジオストックにいたり南はベトナムにいたったが西はトルフアンにもいたらず、チベット、モンゴルも支配の外であったが、朱子学を採用して科挙を確立し、新しい律令を定めて皇帝専制の政治体制の基礎を創った。17世紀になって明に代わったのが清朝である。清は台湾を平定し、南は広州、雲南迄、北はウラジオストックからアルグン川迄、西は青海までを直轄領とし、其れを取り囲むようにチベット、モンゴルからバイカル湖、トムスク、イリ、カシュガルを藩部として間接統治した。朝鮮、ベトナム、タイ、ミャンマー、ネパールを朝貢国とした。
 
 清朝は、20世紀のはじめの辛亥革命によって滅びるのであるが、今日の中国の領土的イメージはもっとも近いかもしれない。1689年のロシアとのネルチンスク条約で確保したアムール川流域を除くと、もっとも今日の中国に近い。チベット自治区も新疆ウイグル自治区も内モンゴル自治区も寧夏ホイ族自治区も含まれている。何故、これらの自治区が清朝に於いて直轄領ではなく藩部だったのかは明らかでないが、少なくとも清朝に取って中華の中心ではなかったのであったろう。

 もちろん、今日の中国にとって外モンゴルはモンゴル国として独立国となり、ベトナム、タイ、ミャンマー、ネパール、朝鮮等の朝貢国もそれぞれに独立国として時代の波に乗っており、国内の各自治区も発展している。広西チョワン族自治区にいたっては、人口4800万人を数え、GMの製造工場等の外国企業の進出も多い湾岸地帯を構成している。

 また、これらの地域が地勢学的に「中国」との関係が変わっていくわけではないであろうが、これからの歴史においても変わる可能性があるようには見えない。

 つまりいいたいのは、この二つの大国はいずれも20世紀の半ばの世界革命期には、侵略される側であったにもかかわらずいまだにその姿を崩さないでいるのは何故か。別の言い方をすれば、現代社会の中でこの二つの大国は我々にとってどのような現実であるのかを感じてみたかったのである。

 建前上は、そういう事もあるが、この2010年の現在では、日本の企業世界の仕事がアメリカ、ヨーロッパから反転して、東南アジアはもちろん中国、インドからアフリカに及ぼうとしているのに、我々の認識は余りにも古い。あるいは企業情報は知らないが、例えば彼らが、と言うのはわが国の「会社」がであるが、「中国では」と言うときにどのような中国をイメージしているか。「インドは」と言うときにどのようなインドをイメージしているのか、はなはだ怪しいと思えるからである。それほど我々はこの大国に対して現実的な認識も情報ももっていないといえるからである。

 企業会社もおそらく、国際弁護士に保証された商売相手のイメージしかないのではないだろうか。それでいいと、或いは信じているのかもしれない。
 
 しかしそれでは其れが良きにつけ悪しきにつけ、我々はその企業活動によってもたらされた結果について判断する情報が与えられる事が出来ないであろう。企業活動つまり経済活動は、企業の認識はともあれいずれ我々生活者に関わってくる事は紛れもない事であるから、経済新聞の半端な海外知識のみでは多分、推し量る事は難しい。

(2)インドの「骨格」について
インドの国土は、大きくはネパール、ブータン等を含むカラコルムから続くヒマラヤ山脈によって中国と区分されている。極端にいえば、カラコルムを源流として南下してアラビア海に注ぐのがインダス川であり、その流域はパキスタンである。同じくカラコルムからヒマラヤ山脈にそって東に流れ下っていくもう一つの大河がガンジス川で、河口はバングラデッシュのダッカである。ガンジス川の蜘蛛の巣のような支流を含めた流域がインドの中心である。インドは、更にこのガンジスの流域の南に二つの小山脈を挟んで広大なデカン高原を抱えている。

 ガンジス川は、カラコルムのjammu-kashimir州(人口771万8700人)、himachal-pradesh州(人口511万1079人)、デリーと隣接するutter pradesh州(1億3903万1130人)、biher州(人口8633万8853人)、west bengal州(6798万2732人)、と東遷してバングラデッシュのダッカに注ぐ。ここまでの流域がインドの中心である。

 ガンジス川は、バングラデッシュのダッカの注ぎ口の上で左右に別れ、左は先のカラコルムに向う流れであり、右はブータンに向って北上して突き当たったところがassam州(人口2229万4562人)、そこから南下してmeghalaya州(人口171万人)、nagaland州(人口121万人)、更に南下してミャンマーとの国境沿いにmanipur州(182万人)、tripura州(人口274万人)、mizoram州(68万人)と続いてバングラデッシュの東側の海に注ぐ程南下する。

 一方、中心部のインドはパキスタンとの国境沿いにpunjub州(2019万人)、haryana州(人口1631万7715人)、インドで唯一の沙漠の国立公園のあるrajasthan州(人口4388万640人)、gujarat州(人口4117万4343人)と下ってアラビア海に至る。gujaratの東がインドの丁度中心でmadhya pradesh州(人口6613万5862人)である。南に高さはさほどでもないが、南と北をわけるふたつの山脈、vindhya山脈とsatopura山脈を控えている。それを越えると南はデカン高原である。

 デカン高原は、東西に海岸沿いの長い山塊を抱えている。西のwestern ghats沿いに北から見ていくとbombyのあるmaharashutra州(人口7874万8215人)、goa(人口116万人)、と隣接するbangaloreのあるkarnataka州(人口4480万6468人)、突端の西kerala州(人口2903万2828人)。
東はeastern ghats沿いにbihar州の下から、orissa州(人口3151万2070人)、hyderabadのあるandhra pradesh州(6633万4339人)、そしてデカン高原の南端tamil-nadu州(5563万8318人)である。この二つの流れが合わさった先の海はインド洋である

 此れを北インド、東インド、中央インド、南インドに仮に区分けして人口を出してみると次の通りである。
      北インド         3,061,82,494人.
      東インド          30,454,562人
      中央インド        128,177,075人
      南インド         307,232,238人
       合計          772,046,369人.
           その他直轄地  113,888,777.

 この人口統計は、1,992年の推計で総計8億8,960万3,000人ある。 北インドの仕切りは、カシミールからアッサムの手前まで。アッサムからバングラデッシュを囲むようなミャンマーの国境までを東インド、カシミールの南から西ベンガル迄中央インド、南インドはすべてデカン高原の人口である。比べてみると、南インドの発展が大きいようであるが詳細はわからない。

 国連統計によると、2,009年の総人口は11億9,800万人である。
平均寿命は   2,007年    男子  62才    女子  64.9才
          1,991年        58.1才       59.1才 
          1,951年        32.45才       31.66才 
資料「ブリタニカ国際大百科事典」より

2010.11.20 田沼

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by esapp | 2010-12-31 19:42