ふじみ野通信

ふじみ野通信17 「年表」にみる日本の災害史考(1)

1.主な年代典拠は「日本史年表」歴史学研究会編

 ここでいう災害とは、自然災害のことである。地震や津波・洪水などは直ぐにうなづけるところであるし、旱魃なども分かりやすい。しかし、例えば大火というのはそれにあたるのかどうか、判断に迷うところであるが、火の元が放火や過失の人災のみで大火には至らないであろうと考えれば、多くの人々にとっては明らかに「災害」である。自然災害の一つである「大風」や防火を妨げる地震などがそれに伴っていたとも考えられる。

 記録は記録者にとって最も大事なことを最初に記述する。人々は日常生活において共通に向き合った条件、すなわち「災害」のようなものは行動を説明する「理由」にはしなかったようである。当然、災害情報は他国に対しては不利な情報であったろうが村中ではともに隠蔽したい深刻な「現実」であったはずであるから、そのような情報が外国の彼らに伝わるはずもなかったのかもしれない。  
 古墳時代までの記録は、ほとんど外国文献による国交の記録である。「倭国」にまだ文字のなかったころの記録だったのであろうから、もちろん、倭国による記録ではない。言い換えれば、外国の為政者の目に映った「倭国」だったのであろう。

 外国の記録の中に出てくる記録は、当然ながら「倭国」の記録であって倭国の災害ではない。言い換えれば、倭国の存亡にかかわるような災害でなければ、災害は載りにくいということだったかもしれない。

 日本史をみると、紀元前後から6世紀はじめ頃までの記録は、中国史の中の「倭」と記紀の記述の相対的な位置づけのなかで確かめられてきたもののようである。わが国最古の記録である記紀の成立は、8世紀になってからであるからそれまでの記述が長い校訂の結果であるのはやむを得ない。

 最古の記録は「漢書地理志」にある前漢の楽浪郡への朝貢の記録である。これが紀元前後。ついで志賀島で出土した「漢委奴国王」とある金印を贈られたという「後漢書東夷伝」の記録。

 2世紀頃になって有名な卑弥呼を記録している「魏志倭人伝」が出てくる。「魏志」には「韓伝」もあってそのなかにも倭人は出てくるようである。

 4世紀になると「百済本紀」、書籍ではないが高句麗の「広開土王碑」、「三国志記」。5世紀になると「宋書倭国伝」「南斉書倭国伝」「梁書」等に倭国は紹介されているようである。記紀は、資料としては6世紀から取り上げられる史実が多いようである。ちょうど、日本の古墳時代が花咲けるころからである。この頃になって、わが国でも文字が使えるようになったのであったろうか。

 最初に記述される史実は、507年の大伴金村らによって越前三国から迎えられた継体天皇の即位からであるようである。これは当時の日本にとっても、よほど奇異なことだったのであろうか。その詮索はしないが、「日本書紀」引用の「百済本記」によると、西暦531年継体25年に、「日本の天皇および太子、皇子ともに没する」と伝えている。これも奇異なことであるが、同じく所引の「上宮聖徳法王帝説」はこの年欽明天皇即位と伝えている。つまり、三国から連れてこられた継体天皇とその一統は25年の治世の後に消し去られてしまったかのように見える。

 この6世紀半ばのころから、記紀の記述が多く取り上げられるようになっている。外国の記録では「随書倭国伝」であるが、このほうはほとんど任那の滅亡と新羅・高句麗・百済をめぐる外向的な動向で倭国内の蘇我氏や物部氏、厩戸皇子などの攻防はほとんどが記紀の記録によって登場してくるが、なかったはずはない災害については登場していないようである。

 最も古い災害の記録は、599年推古7年4月の項に「地震により舎屋倒壊する。四方に地震神を祭らせる」とある。この頃の都は、まだ奈良の辺たりであろうから「四方に」というのは現在の奈良・和歌山・大阪等の近畿圏を示していたのであろうが、地震神とはどのようなものであったろうか。

2.飛鳥・奈良の震災年代記

 622年推古30年2月、聖徳太子の厩戸皇子が斑鳩宮で没する。次いで蘇我馬子が626年推古34年に没する。そして、この年霖雨で大飢饉となる。このころから、天災・災害も記述されるようになるが、この時の大飢饉となった倭国はどの辺りまでの地域を指すのか、は想像するしかない。また、地震については伝聞の記述をでないようにも見えるが、地方官の報告が柱になっているのかもしれない。

 この項について、もう少し付け加えて考えるとまず、白村江の敗戦で天智朝は外国への防備と内政の充実に迫られてくる。その結果、670年天智9年、全国的に戸籍「庚午の年籍」の制を進める。それと前後して設置されたと思われる、亡命百済人を主要構成員とする中央官人養成機関「ふんやのつかさ」としての大学が、官人の識字率を大きく向上させたであろうことは想像される。多分、この二つのことが飛鳥・奈良朝後半以降の記録と諸制度の進行に大きく関わってくると考えられるからである。

636年舒明8年、この年大旱で天下が飢える。
「旱」には、大旱・水旱・炎旱・旱魃と出てくるがいずれも旱魃の意。

642年皇極元年6月~8月、大旱。群臣により雨乞いが行われた。大臣蘇我蝦夷は諸寺に命じて大乗経典を読み上げさせたが雨はわずかに降っただけであった。そこで天皇が南淵の川上に跪き四方を拝して天に祈ったところ、雷鳴とともに大雨が降ったという。

678年天武7年3月 九州は有明海の辺りに地震あり。家屋倒壊多く、長さ3,000余丈の地割れを生ず。

684年天武13年10月14日 四国沖を震源とする南海地震。東海・南海・西海道大被害。津波、土佐田苑50万(頃)海となる。

701年大宝元年3月26日 丹後半島に地震。舞鶴沖の凡の海・郷を没し、山頂のみが残り二つの島となったという。

704年慶雲元年 この年から3年間、水旱・飢饉が続き百姓、多く死亡する。

715年霊亀元年5月26日 志摩半島沖に地震。三河、正倉47破壊。
正倉とは、郡単位で設置された不動租穀の収蔵、群稲の運用、貢納物の収蔵庫。郡司の管理下にあった。当該郷内の田租・正税は郷蔵に収蔵された。

734年天平6年4月7日 紀伊半島に地震あり。民家倒壊、圧死多く、山崩れ川ふさぐ。

735年天平7年 「夏より冬にいたり、天下豌豆瘡を患う」(「続日本紀」)とある。この年不作、また天然痘により多数死亡する。この疱瘡というのは、伝染力のきわめて強い急性伝染病である。気道感染で、5日ぐらいの潜伏期間で全身に丘疹が発生、水泡ついで膿疱となり、カ皮を作り脱落後は瘢痕となる、死亡することもある。現在は絶滅宣言が出されているが、歴史上は長く苦しめられている。

737年天平9年 この年、また天然痘が大流行する。同じく「続日本紀」に「春、疫瘡大発す。初め筑紫より来たり、夏を経て秋に亙り、公卿以下、天下百姓相継いで疫死す」とある。その恐ろしさがわかるようである。

745年天平17年4月27日 京都に地震。美濃の櫓館・正倉・仏寺・堂塔・百姓櫓舎倒壊多し。

790年延暦9年 この年 京畿に天然痘流行。この「京畿」というのは、王城の周辺の地という意味である。律令国家が定めた行政区域で山城・大和・河内・摂津の4カ国をいう。もともとは律令国家を形成した諸氏族の居住地域を区別扱いしていったもの。京都は、延暦13年794年に桓武天皇が遷都してから都=京となった。呼び名は平安京である。

3.平安の震災年代記

 平安朝にいたっても、恐ろしいものの第一は「疫病」であった。既に、「古事記」によると崇神天皇の条に「この天皇の御世に疫病起こりて、人民死に尽きなむとす」とある。その恐ろしさが滲んでいるような文章である。また、「日本書紀」には「疫病・疫疾・疾疫・疫気」を「え(役)にたたされるやまい」と読んでいる。つまり「全ての人が罹り尽くす病気」ということからおこった言葉で、今日でいうところの伝染病を指したようである。

 しかしこの時代にあって有効な対策はなかったから、人々は祭祀に平安を求めた。春秋の豊穣と収穫の祀りに対して「夏祭」はもっぱら疫病払いであった。

第二の恐ろしい災害は、地震と火事であった。地震の研究者によると「有史以来、今日までの被害地震数は、微小被害のものまで含めると約620に達する」というから相当の数にのぼるはずであるが、この時代の記録はまだまだ少ない。

 しかし、地震も疫病も、記録よりはよほど多かったのであろう。古来、恨みを含んで不慮の死を遂げた怨霊の祟りが疫病の原因だとする考えが一般にあり、人々には激しい怨霊の怒りが地震や旱魃や大風・豪雨等の天変地異をもたらしている、という虞れがあった。

863年貞観5年5月には京都で怨霊会が行われるようになり、970年天禄元年にはあの有名な祇園怨霊会は牛頭天王を勧請して、本格的にその強い霊力によって救われようとしたようであった。
地方官の報告書という形であっても、記録が整ってくることは、それは為政の体制がそれなりに整ってきたことを意味していたのであろうが、為政者の対策はなかなかにまだ有効ではなかったのであろう。
 
800年延暦19年3月 富士山噴火。「日本紀略」によると、この噴火は20年、21年と続いたというが詳細ははっきりしない。また、「続日本紀」によると天応元年781年7月の条に「駿河の国言、富士山下雨灰、灰之所及木の葉彫萎」と記しているのが初出である。

818年弘仁9年7月 上総・安房を除く関東で強震。山崩れ・谷埋まり、百姓の圧死多数。

827年天長4年7月12日 京都で地震。舎屋多く潰れ、余震翌年に及ぶ。

830年天長7年正月3日 陸奥の秋田で大地震。これについては「秋田城国司正六位上行介藤原行則」の出した牒が残っている。「三日辰の刻、秋田城地方に大地震がおこり雷鳴のような大音響とともに城郭・官舎・四天王寺・丈六の仏像・四王堂などすべて倒壊し、死者15、傷者一百余である。大地は三十丈から二十丈ばかりの裂け目があり、城辺の大河の秋田河は流れが細くなり溝のようになった。川底が裂けて漏水して海に通じたのであろう、官民は動揺しておりじっくり検分できていない。支流は――両岸崩れ塞がって氾濫し、近くの住民は暴流を恐れ争って山や丘に移動している。――余震が一時に7~8回もあり、それに風雪が吹き荒れて、以後の被害状況は把握できない。」

837年承和4年4月16日 陸奥の玉造温泉に地震。「雷響振動が昼夜続き、山焼け谷塞がり、石崩れて木折れて新沼を作って雷のような騰声があがる」という火山性の地震があった。(「続日本後紀」)

841年承和8年 伊豆に地震。里落ち完からず。死傷多し。
 
848年嘉祥元年8月 京都大洪水により河陽橋・宇治橋・茨田堤等が損壊する。

850年嘉祥3年 陸奥に地震。山崩れ、出羽の城柵傾廃し、圧死多数。最上川の岸崩れる。

863年貞観5年 春、京畿内に咳病流行する。この「咳病」という表記は、所謂漢方医学の表記で咳の出る病ということである。この当時、既に漢方医学は日本に入っていたと思われるが、この咳病は、湿咳と乾咳とあってそれによって病名が違ってくるとしているから、この場合の病名は不明である。多分、今で言う「風邪」の類か。

864年貞観6年5月から6月 富士山噴火。この噴火では、「北西の中腹から甲斐の側に向かって大量の溶岩を流した。[せのうみ]を分断して、百姓の居宅を埋没させた」(「続日本紀」)というから、この時に富士五湖が生まれたのか。

865年貞観7年 前年末より今春、阿蘇神霊池沸騰。

868年貞観10年7月8日 播磨に地震。播磨諸郡の官舎、諸定額寺の堂塔、悉く崩れる。

869年貞観11年5月26日 陸奥国に地震・津波あり。「陸奥の国に大地震あり。(夜なのに)昼のように流光が映えた。やがて人民は叫び転んで立てなかった。家倒れて圧死し、地裂けて埋もれ死んだ。牛馬は狂奔し、城郭・倉庫・門櫓・はしら壁が無数に崩れ倒れた。海は咆哮し、雷のように海鳴りが響き大波が漲り、忽ち城下にいたり、みな海面になり海岸線もわからない。原野道路もみな水面となり、船に乗る暇も山に登る余裕も溺死者も千にもなる。資産も稲作も残るところがない。」(「類集国史11年紀5月26日条」)

869年貞観11年7月 肥後の国に大暴風雨。「瓦を飛ばし、樹木を倒し、多くの官民の建物を転倒させ、人畜の圧死するもの数知れず。潮水が漲り溢れ六郡が漂没した。水の引いた後で官物を探したが十のうち五六を失った。海から山まで田苑数百里が陥没して海になった。」(「日本三代実録」7月14日の条)

875年貞観17年8月 京都大風雨。

878年元慶2年9月 紀伊国府破壊、関東地震。

880年元慶4年10月14日 出雲で地震。神社・仏寺・官舎・民家の倒壊多し。
同年12月6日 震央は京都。宮城の垣柱・官舎・民家の類損多し。

887年仁和3年7月 諸国大地震。京都で家屋倒壊多く、圧死多数。津波、南海道を襲い、溺死者多数。

915年延喜15年 この年、疱瘡流行。

923年延長元年 春以降、京中に咳病流行。

929年延長7年 7月から8月、大風洪水。

930年延長8年 春から夏にかけて、京中に疫病流行。疫病には麻疹・疱瘡・咳病なども含まれていたと思われるが、詳細は不明。

937年承平7年11月 富士山噴火。

938年天慶元年4月15日 京都で地震。宮城門柱等破壊。堂塔・仏像多く倒れる。高野山の諸伽藍破壊。

944年天慶7年9月 暴風雨のため弘懲殿・信濃国庁等転倒。

947年天暦元年6月以降、疱瘡・赤痢流行。この「赤痢」には二つの種類があって、1880年明治13年まで九州地方の地方病にすぎなかったといわれる寄生虫によるアメーバ赤痢と細菌による真性赤痢とある。この場合、どちらかは不明。

956年天暦10年 この年、旱魃。

962年応和2年5月 加茂川堤決壊して京都洪水。

966年康保3年8月 桂川決壊して京五・六条洪水。

974年天延2年 8月から9月、疱瘡流行。

976年貞元元年6月 京・近江の国に地震。八省堂・豊楽院・東寺・近江国庁等転倒する。死者50余。

994年正歴5年4月 疫病京中にも流行し、路頭に病者・死者多し。疫病九州より起こり、諸国に流行。
998年長徳4年6月 疱瘡流行。

999年長保元年3月 富士山噴火。

1000年長保2年6月 疫病流行。翌年の春、夏に及ぶ。

1015年長和4年3月から7月 疫病流行。

1020年寛仁4年 この年の春、疱瘡流行。

1025年万寿2年 この年、諸国に疱瘡流行。

1026年万寿3年8月 大風で諸官舎倒れる。

1028年長元元年9月 鴨川氾濫、京都に洪水。

1030年長元3年 この春、疫病流行、死者多数。

1032年長元5年12月 富士山噴火。

1044年寛徳元年 1月から6月、疫病流行。

1048年永承2年 6月から7月、諸国旱魃。

1059年康平2年5月 大雨により京都洪水。

1077年承歴元年 この年、疱瘡流行。

1079年承歴3年3月 京都大火。翌1080年承歴4年6月 大雨で京都洪水。

1082年永保2年 この年、諸国旱魃。

1083年永保3年3月 富士山噴火。

1084年応徳元年7月 疱瘡が流行。翌応徳2年秋、続いて疱瘡流行。

1091年寛治5年8月 京畿、大地震。翌寛治6年3月 京都大火。8月 諸国に大風洪水。伊勢両宮の宝殿が倒れる。

1093年寛治7年 この冬、疱瘡が流行して多数の小児が死亡する。

1096年永長元年11月24日 東海沖地震。東大寺の鐘落ちる。伊勢・駿河に津波。駿河の流失家屋400余。

1098年承徳2年2月 京都大火。6月 鴨川が氾濫。翌康和元年1月24日 南海沖地震。京都に被害、興福寺西金堂倒壊。土佐の田1000余丁海に没す。7月 天変・地震・疾病により非常赦を行う。

1101年康和3年1月 大地震。興福寺金堂・大門倒壊。翌康和4年 西国で大風。箱崎宮の神殿倒壊。

1108年天仁元年7月 信濃浅間山が噴火、上野の田畑壊滅。

1110年天永元年7月 咳病が流行する。翌天永2年 この年、諸国飢饉。

1116年永久4年9月 京都に大火。

1125年天地2年12月 京都大火。内裏諸門で鬼気祭りを行う。

1127年大治2年2月 大内裏火災。翌々年大治4年1月 京都大火。

1134年長承3年 この年、洪水・飢饉・咳病が流行。

1142年康治元年9月 大雨で鴨川が氾濫。

1146年久安2年3月 京都大火。翼々久安4年2月 京都大火、法成寺・法興院等罹災。

1155年久寿2年 諸国飢饉。

1161年応保元年7月 大雨により鴨川氾濫。

1166年仁安元年12月 京都大火。翼々仁安3年 また京都大火。

1171年承安元年10月 京中に羊病と称するものが流行。この羊病の実態は不明。ただ、「屠所の羊」という言葉があったことからすると意味は、「不幸に直面して気力も衰え、悲しみにうちひしがれている様」ということになる。

1175年承安4年6月 長雨により諸国に被害。

1177年治承元年2月 疱瘡が流行する。

1181年養和元年4月 京中に餓死者あふれる。この年、諸国飢饉。翌寿永元年も飢饉が続き諸国の餓死者数万人に及ぶ。

1185年文治元年5月 京都に疫病流行。7月9日 京都に大地震。特に白河辺りの被害大。法勝寺の阿弥陀堂・南大門など転倒。

2011.6.10 田沼

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by esapp | 2011-06-10 10:05